ベラクルス州ハラパにて その2

今回のメキシコ旅行での「食」についてのお話です。

ベラクルス州にはコアテペックCoatepec、コルドバCordobaというコーヒーの二大産地があります。いずれもハラパ市内から10キロ圏内で車があれば気軽に訪れる事ができます。

メキシコはブラジル、コロンビアに次ぐラテンアメリカでは第三のコ―ヒ―生産国、酸味とコクのバランスが良く、飲み飽きないのが特徴です。

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△Cafe Bora de Oro

今回も初めて訪れるベラクルス州ならではの民芸品を求めて探し歩きましたが、名産のコ―ヒ―はショップが至ることろに軒を連ねているのに、物販で紹介されているのはゲレロ州やチャパス州のものばかり(それらは確かに州境の近郊の町でもあります)。

残念ながらメキシコ湾岸のベラクルス(100km)まで行かないと地方色豊かな刺繍のブラウスは手に入らないようです。

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メキシコが「メロンパン」発祥の地だということはご存じでしたか!?少し前、メロンパンが大好きな娘が「メロンパンの本」を読んでいて、聞くとメキシコが発祥だという。メキシコ行ったら写真撮ってきてね!という娘の注文に、毎日色々な種類の美味しいメロンパンコンチャLaConchaを食べました!日本のそれとは違い、しっとり柔らかな食感で何個でも食べられるという小ぶりサイズのものが多かったです。

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△コンチャと呼ばれているパン各種

ハラパのレストランでは、サルサを頼むと「チレ・セコ」=チポ―トレchipotleのサルサが運ばれてくる。日本でも有名な「ハラペーニョ」を注文すると、ここでは「ハバネロ」だという。しかしハバネロは思っていたほど辛くなく新鮮な食感で食がすすみました。

カマレロに理由を聞くと、ここはメキシコ湾岸の州で、海のすぐ向こうのキューバの音楽や食がそのままダイレクトに伝わってくるんだ、とのこと。なるほどレストランのグランドメニュにはキューバ料理の影響を受けた豆料理などがたくさんありました。

ここのレストランのカマレロたちは皆機知に富んでいて、観光お勧めスポットやお料理のことなど、滞在中日々いろいろなことを教えてくれました。

その中でもカマレロ達の話の中で「トルメンタ・トロピカ―ナ」という言葉がたくさん聞かれましたが、初めて聞く新鮮な言葉で、メキシコ湾岸の町に来たのだなと実感しました。sol(7月15日)

ベラクルス州ハラパにて

ハラパXalapaの第一印象はとにかく「坂道」が多いこと。

今回ギャラリーが提供してくれた宿泊先ポサダ・マリキンタPosadaMariquintaもほとんど頂上に近い急坂の上にあり、毎日数回の昇り降りはちょっとしたハイキングです。現地の人は‘丘Cerro’と呼んでいたけれどわたしにとっては丘ではなくちょっとした小高い‘山’のように感じました。車を停車するのも至難の業ですが、車の乗降も後ろに重心がかかってしまい毎度大変でした。

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△坂の途中に佇むポサダ

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△ハラパは坂道の町

ホテルに着いてまず行ったことはやはりメールのチェックです。

今回もドコモの海外ローミングサービス利用でメキシコ到着時以降Telmexが有効と表示されてはいますが、電波状況により使える時とそうでないときがありとても不自由でした。

ホテルに着いてPCの有無を尋ねるとWifiはあるが貸し出せるPCはないとのこと。まあたまにはPCのない生活もよしとしようかなと思っていたところホテルから3分ほどのところにPCショップを発見。

10:00-20:00営業、利用料金は1時間12ペソ(約75円)。店内12台ほどの旧式(Vista以前の機種)デスクトップパソコンと丸椅子が設置、15分、30分、45分と画面右上にカウントされ、終了時に「Finish」ボタンを押して支払いします。今どきこんな商売があるなんてと思っていましたら、瞬く間に店内満席でびっくり、また店の外まで行列ができる日もありさらに驚きました。

メキシコのキーボードで手間取るのは‘@’アロバArrobaです。

聞くと教えてくれるのですが機種によってちがっていて「Ctrl+Alt+2」と「Shift+Q」の二通りあります。

メキシコ市に置いてきたタブレットがあればこんな苦労しなかったのに、なんて悔みながらメールを開いたら2日間で300件以上の受信メール。中には大切な仕事のメールもあるので一件一件チェックしていたら1時間なんてあっという間でした。

途中FBメッセンジャーにて「みんながレストランで待っているよ!」とのメッセージを発見、慌ててログアウトし、PCショップを後にしました。

毎日一回利用しているうちに安い料金ながらも「一時間」という決められた範囲内で処理するという作業が身につき、また時間の観念が再認識できたよい機会でした。つづく sol(7月10日)

メキシコ・ベニトファレス国際空港にて

アエロメヒコ航空AM057便で13時間の飛行を終え現地時間6月20日月曜日13時、メキシコ市のベニトファレス国際空港に到着しました。

雨季ということもあり薄曇りの天気、連日の降雨のせいか排気ガスのにおいはそれほど感じませんでした。

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△アエロメヒコ航空B787-8機

日本からアエロメヒコ直行便就航以来5度目の搭乗ですが入国審査で長蛇の列ができているのは今回初めて。メキシコ人入国者より外国人入国者のほうが俄然多いのです。

アエロメヒコ航空は米国を経由せずに日本または南米へ行かれるため米国査証(ビザ)も不要で便利なのだそうです。

日本からの機内も定員約300名のうちメキシコ人20%、韓国人10%、日本人団体観光客3グループが30%、ペルー人など南米系40%といった感じでした。

入国審査を終え、ターンテーブルで荷物を受け取り、荷物検査を受けるか否かのボタン(赤色:検査、緑色:通過)を押します。今回も無事に緑色となりさあ出口へ!と思っているところへ、右前方の男性検査官に呼び止められました。

今そこで緑色のボタンで通過したところで何の検査ですか?と尋ねると「我々はサガルパSAGARPA、植物検疫です。日本からの便ですね、米や食品を持っていますか?」と聞かれ、続けて「あなたの黄色いスーツケースを開けて見せて下さい」と言われしぶしぶ開いて見せました。

サガルパSAGARPAといえばメキシコ農務省、在日メキシコ大使館ではアボカドやマンゴーなどの食品輸出部門を担っている部所です。

幸い、この黄色いスーツケースには和菓子2箱のみで(もう一方のグレーのスーツケースにはぎっしり日本食を詰めていた)あとは着物など衣類でしたので検査官もあきらめた様子、事なきを得ました。

検査官の話によると、日本からの便ではお米や種、生の食品を持ち込む例が多く、持ち込み禁止だと知らない人が多いので困っています、ということでした。

またメヒコから帰国後、在日メキシコ大使館サガルパSAGARPA益田氏とお話する機会があり伺いましたところボンカレーなど肉類の入ったレトルト食品もメキシコへの持込み禁止なのだそうです。税関申告書書類にも具体的には記載ありませんから気をつけたいものです。

今回、入国審査から植物検疫まで、相手の言っていることが全て理解でき、自分の語学力もずいぶん進歩したものだと思いながら、出迎えてくれた運転手のホセ・アントニオとキヨミ―タと挨拶を交わし駐車場へ向かいました。つづく sol(7月7日七夕)

島田正治展覧会in ハラパ

島田正治展覧会がベラクルス州立大学ギャラリー(メキシコ・ハラパ)で始まりました。遠方ですが7月いっぱい開催中です。みなさまどうぞお出かけください。

Empezo la Expo de MASAHARU SHIMADA.Ahora esta expuesta la obra victorica de mi papa en la Galeria Ramon Alva de la canal en Xalapa hasta al domingo 31 de Julio,2016.

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ガレリア・ラモン・アルバ・デ・ラ・カナル 入口のフラッグ

ラテンアメリカ婦協会チャリティーバザー

日時:10月28日(水)11:00−4:00

会場:東京プリンスホテル2階(鳳凰の間、マグノリアホール)

◎抽選券つき入場券はメキシコ大使館へお問い合わせください。

アルテシマダはメキシコ大使館ブースにてミチョワカン州を中心としたメキシコ民芸品ご紹介販売をいたします。みなさまお誘い合わせの上ご来場下さい。

昨年は常陸宮妃殿下がドミンゴブロック作品をお買い上げ下さいました!sol(2015年10月20日)

キューバ紀行その3

追記

【トロピコーラのこと】

みなさんは「トロピコーラ」をご存じですか?キューバ産コーラでアメリカ時代の名残のひとつ。かなり甘いコーラですが、常温で売られていることが多く炭酸はほぼ抜けているような印象、他に飲み物の選択肢がないことで現地ではとてもお世話になりました。

【映画「ハバナ」】

帰国後ハリウッド映画「ハバナLaHabana」が公開されました。映画と同じ舞台に行ってきたことの懐かしさと興奮、あそこに、あのような華やかな時代があったのだなとしみじみ歴史の長さを感じました。

古く大きなアメリカ車と歴史地区の建造物、要塞、へミングウエイErnestHemingwayが22年間暮らしていた家などは当時のまま佇んでいました。

人々もかつての時代を名残惜しんでいるような、しかし今の暮らしに満足しているのか街のあちこちで陽気な音楽が流れ踊っている人、道端でサッカーをしている子供たち人々はみな明るかったです、さすがラテンの国ですね。

【ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ】

1999年ヴィム・ヴェンダース監督により、同名の音楽ドキュメンタリー映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブBuena Vista Social Club』が制作される。ワールドツアーの模様も収録、映画の後半に映ったカーネギー・ホールでのライヴ録音が2007年に『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』としてCD化された。

この映画が日本で上映されたのは確か翌年2000年だったと思いますが、さすがに来日ライブには行けなかったのでせめて映画だけでもと保育園帰り当時1歳半の娘を抱っこしあやしながら夢中になって観たのを憶えています。

こんな素晴らしいライブ映像はめったに観られるものではないのになぜ観客が少ないのかなと思う反面、幸いなことにすいていたので人に迷惑をかけることなく最後まで観きることができた次第です。

【教育と医療事情】

オフィス業務以外の市民はランニングシャツまたはTシャツに短パンにゴム草履という服装が多く、気候が温暖だと生きてゆくのに洋服はあまり必要ないのだなと思いました。

キューバでは「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」というカストロ氏の考えから、教育に国を挙げて力をいれていて教育は無償ラテンアメリカでは最高水準だそうです。

キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。人口10,000人中の医師数が67.2人と世界で最も多いグループに属する。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。医学部は無料で留学生(アメリカ人も含む)も無料である。(Wikipediaより抜粋)

このモデルは本当に素晴らしいことだと思います。キューバの人達はみな胸を張って自慢します。

【ハバナの免税店】

キューバ出国時の免税店ではスペイン語・英語・中国語表記があり中国産のお土産(天然石の置物)などがガラスケースの中で売られていました。日焼けした労働者風のアジア人も多く、聞いた話によると北朝鮮の人達が労働に来ているということです。

わたしたち資本主義国の人間は、社会主義国の人と滅多に会う機会はないけれど、他国ではこのように人や物が流通しているのだなと思いました。

【国際電話】

予定のメヒカーナ航空に乗れずメキシコ市に国際電話を入れた際、キューバでは国営の電電公社みたいなところで10台ほどの電話ボックスがありオペレータが相手を呼び出し相手国とつながったら指定のボックスで話すという方式でした。

かつての日本でも電話交換手がいましたが、ここでは全ての物事にとてつもない時間と手間をかけているたのだなと思いました。

ホテルのエレベータでは丸椅子に腰かけたセニョーラが爪を磨きながら「何階ご利用ですか〜」とボタンを押す光景もあちこちで見られました。ワークシェアならぬ分業体制です。

【アイロン】

同行したマルタはキューバまでアイロン持参で、衣類全てにアイロンをかけてから着用していました。メキシコの物はしわになり易いし衛生面の理由もあってのことだそうです。下着にもアイロンかけているのにはびっくり。「てるひも使う?」と聞かれたけれど、お借りすることはありませんでした。アイロンをかける=Plancharという単語はこのとき覚えたものです。

【バレーボール選手】

ハバナからメキシコへ戻るメヒカーナ航空ではキューバの女子バレーボール・ナショナルチームと同じ便でした。東洋の魔女ならぬ「カリブの魔女たち」でした。

【Intur】

外国人専用ショップTiendasInturは市内数か所にあり、USドルで支払うことができるもののおつりが外国人専用通貨(兌換ペソ)で戻ってきます。ゲームセンターのコインのように軽く使い切るか出国時に寄付する箱が置いてありました。

これからはUSドルで通用する時代の幕開けとなるのでしょうか。sol(4月16日)

キューバ紀行その2

メキシコ観光?に就職してから3年目の1990年7月、仕事でキューバを訪れる機会がありました。

当時メキシコ観光?では、メキシコ駐在の方が夏休みを利用して日本に住んでいる家族を呼び寄せる「呼びよせツアー」なるものがあり往復の航空券に弊社添乗員がつき、初めてメキシコを訪れる人向けに入国書類を用意したり、またメキシコの入国審査・税関などグループ扱いなので安心して旅することができることで評判でした。

そのツアーで添乗を兼ねてメキシコ入りし翌日メキシコ観光メキシコシティ本社社員のマルタ・レイナと共にキューバを訪れました。

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【1990年7月28日】

メキシコ市からメヒカーナ航空311便でユカタン半島のメリダMeridaへ、(2時間弱)ここで出国審査を行い小一時間でキューバの首都ハバナLaHabanaに到着。

目立つように水色の縦縞柄シャツを着ているのがツアーガイドらしく、今日7月28日がカーニバルCarnaval最終日だったそうで暑い海風が吹き抜ける空港には、スペインやメキシコから到着した外国人観光客で溢れていました。

宿泊は市内にそびえ建つハバナリブレHotelHabanaLibre、(旧ヒルトンホテル)キューバ国営観光会社Cubaturが主催する国内ツアーに申し込み、あとの時間はハバナ市内ホテルインスぺクションに周ります。日本人にも人気のナショナルホテルHotelNacionalは残念ながら改装中でした。

ウエルカムドリンクモヒ―トMojito

キューバ特産ラム酒ベース、ミントとライムが爽やかなカクテルで女性にもお勧め、初めて飲むモヒ―トは暑いハバナにマッチしとても美味しかったです。

【7月29日】

ハバナ旧市街など市内観光へ。

マルタはハバナでしか手に入らないというオメオパタHomeopataを処方してもらいに行っていました。何の薬だかは忘れましたが日本でいう漢方薬みたいのかなと思いました。

【7月30日】

ハバナ西200kmバスで片道約約3時間ビニャ―レス渓谷Valle de Vinalesのオプショナルツアーに参加。US$30.00。

このピニャ・デル・リオPinar del Rioがキューバの中では一番印象的に残っています。むせる緑の匂いと草原の風景は素晴らしく、見渡す限りの桂林のような山々、石灰岩の山脈には鍾乳洞Cueva del Indioがあり、洞窟の中を小舟で遊覧(生まれて初めての鍾乳洞でした)手つかずの自然とはこういうものなのだなと思ったものです。

その後1999年に世界遺産に登録されました。

野外ランチの後、男性に葉巻、女性にはマラカスをプレゼントしてくれました、自分へのお土産ができて嬉しかったです。その後、葉巻タバコ工場で葉巻の作製風景やプランテーションを見学、素晴らしい海岸線を眺めながらハバナに戻りました。

【7月31日】

近場のカサ・ブランカCasaBlancaへ行ってみようかということになり、いざ列車で出発、2時間半、片道20ペソ。

運河を隔てた小島でチェ・ゲバラErnesto Rafael Guevara de la Serna邸もあると聞いていましたが観られず他には何もないのですぐにハバナに戻りボデギ―タBodeguita del Medioで昼食。ご存じの方も多いと思いますがここには壁いっぱいの落書きやサインが残っていて有りし日の面影を見ることができます。

【8月1日】

申し込んだバラデロ行きツアーが催行されなかったのでPlaya del Esteで海水浴。ランチはLaParilladaにて。

午後8:30〜トロピ―カ―ナショウTropicanaへ。

夜8時といってもはまだ薄明るく昼間の暑さも残っていますが、市内から15分ほど移動した野外公園の一角でショウが行われます。

質素な人々の暮らしや街中と比べ裏腹な華やかさを放つキャバレーショウですが、まだ暑さの残る海風に吹かれながら頂くミント入りモヒ―トは爽やかで、同じツアー客のメキシコ人セニョーラたちと乾杯!

【8月2日】

念願のバラデロVaraderoビーチへ!

途中Matansazの町を通り片道3時間。インターナショナルホテルHotelInternacionalにてランチ、ロブスターの炭焼き(US$15.00)を食べる。それは大きなロブスターでプリプリの白身にリモンをかけ頂きました!

【8月3日】

メキシコ市へ移動の日。

翌日4日にユナイテッド航空で日本行きを予定していた為、マルタより一日早くメキシコ市に戻ることになっていました。

朝7時にJoseMarti空港へ行き早めに待機していたにも拘わらずわたしの予約がリコンファームReconfirmされていないという理由で搭乗できず、メキシコへ戻れませんでした。一旦ホテルに戻りマルタに話すと今日はもうメキシコ行きの便がないという。仕方ないのでハバナ市内のメヒカーナ航空へ行き航空券を変更、メキシコ市の本社へ国際電話を入れると―

‘袖の下’でもなんでも飛行機にしがみついてでも乗って来なかったのか

―と当然ながら非常に怒られました。わたしも満席で席がないと言われ頭の中はまっ白でパニック‘袖の下’と言われても余分の持ち合せもなく全く思いつかなかったですし、挙句日本帰国便の航空券も使えず再購入、会社には大損させてしまったという結末です。

今現在リコンファーム(予約再確認)という作業は廃止されましたが、このキューバでの失敗をわたしの旅のモットー「命の次にパスポート」「e-ticket(航空券)」「お金は分けて多めに」という教訓に生かしているつもりです。

【8月4日】

ハバナ/メキシコMX5310便(臨時便)にてマルタと共にメキシコ市へ戻り、翌日8月5日メキシコ発UA838便にてサンフランシスコ経由8月6日成田空港に無事到着しました。

日本からの「呼びよせツアー」でご一緒だった方々には、復路が添乗員なしで一緒に帰国できず本当に申し訳なかったです。お客様の中には「島田さんキューバで大変だったようですが(共産圏から)ご無事で何よりです」と言って下さった方もいらして、改めて無事に帰国できたことに感謝しました。

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日本からキューバへ行く方法は、カナダ経由、メキシコ経由がありスペインや中国からも飛んでいるようです。

天気の良い日にはフロリダ半島のキ―ウエストKeyWestからキューバが臨める(約145km)という話を聞いたことがあります。

伊豆半島から大島(約25km)を臨むことができても東京から大島(約120km)は遠いですね。キューバはアメリカとは目と鼻の先なのに、日本からは遠いのだなとしみじみ思いました。

半島や島々の悲しい歴史はつきものですが、キューバはこれまでの経験から同じ轍を踏むことなく、大国に左右されず独自路線を保ちつつメキシコなど近隣諸国とも上手にやっていくのではないかと思います。

オバマ米大統領は4月14日、キューバに対するテロ支援国家指定を解除することを承認し、議会に通告した。米ホワイトハウスが明らかにした。順調にいけば45日後以降、1982年以来33年ぶりに解除される。その際には、キューバに対する経済援助禁止などの制裁も緩和される。(2015年4月15日朝日新聞より)

経済制裁から脱し国民が経済的に豊かになることは望みますが、できれば手つかずの自然や人々の素朴さはいつまでも残ってくれることを望みます。

将来日本からアメリカ経由キューバ行き最短ルートが開かれる日は近いことでしょう。

キューバ紀行その3(追記)に続く・・・

キューバ紀行その1

2015年4月11日キューバのラウル・カストロ国家評議会議長とアメリカ合衆国バラク・オバマ大統領が59年ぶりに首脳会談に臨みました。

同じ路線の社会主義国からすると手放しでは喜べないかもしれませんが、メキシコ関係の仕事で約30年やってきた私は、このニュースを聴いて雪解けのような感じがしてなんとなくホッとしています。

わたしが初めてキューバを訪れたのは1990年まだフィデル・カストロ・ルスFidelCastroLuz国家評議会議長が国家元首だった時代です。

1959年キューバ革命から56年が経ち、1990年に渡玖してから実に25年も経過したことになります。

キューバCuba「カリブの真珠」と呼ばれるカリブ海に浮かぶ美しい島で、スペイン語では「ク―バ」と発音します。因みに漢字表記は「玖馬」と書きます。

キューバ紀行を書く前に自分自身もキューバの歴史の復習です。

1492年 サン・クリストバル・デル・コロン(コロンブス)キューバ島に到着(12月27日)

1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル、キューバ総督に任命

1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始

1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日)

5月19日 マルティ戦死

1898年 米西戦争(2月)

1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)

1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借

1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)

1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)

1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命

1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動、活動開始

1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)

1958年 反乱軍の最終攻勢始まる

1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)

2月17日フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命)

4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否

5月17日 農地改革法公布

1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表

2月4日 アナスタス・ミコヤンソ連副首相訪問、キューバ・ソ連通商条約調印

4月4日 ユナイテッド・フルーツ社有地が接収される

6月29日 テキサコ製油所介入

7月1日 エッソとロイヤル・ダッチ・シェルの製油所へ介入

7月2日 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当制度を廃止

8月6日 アメリカ企業接収

1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)

4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃。

4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言

4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件)

4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表

1962年 キューバ危機(10月15日)、ケネディ米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)

10月27日 オリエンテ州北部でU-2機撃墜

10月28日 フルシチョフ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ

1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問

1965年 キューバ共産党結成

1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表

1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化

1976年

新憲法(現行憲法)制定

クバーナ航空455便爆破事件。傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレス、乗客乗員73人全員を殺害

1977年 アメリカと利益代表部設置で合意

1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺

1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵

1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法[5] 成立、ジョージ・H・ブッシュ大統領が署名

1993年 ドル所有の合法化

12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命

1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意[6]

1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法[7] 成立、クリントン大統領が署名

1998年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のキューバ訪問

1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件

2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表

2001年 アメリカからへの食糧購入開始

2002年 ジミー・カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正

2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権の一つにあげた。 キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される

2008年

2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表

2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出

2009年

6月 米州機構総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否。

2011年 部分的に市場経済が導入される

2014年

12月18日、アメリカ合衆国との国交正常化交渉を開始すると発表

2015年4月11日、59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる

(Wikipediaより抜粋)

キューバ紀行その2へ続く・・・

メキシコ市でもクッキング!!

モレリア滞在を終え、山のようなミチョワカン州の民芸品とスーツケースと共にいつものETNバスで夕刻明るい時間にメキシコ市に着くことができました。

ETN乗車時にはスナック(クラッカーとヨーグルト)と飲み物のサービスがありちょっとしたピクニック気分です。ETNバスは相変わらずの速度制限80キロでゆったりとメキシコ平原走ること4時間、ニ階席からの広大なパノラマ眺望を楽しみながらメキシコ市に戻ってきました。

排気ガスと、トルティーヤの香ばしい匂いに大きく深呼吸。ホセ・アントニオがバスターミナルまで出迎えてくれました。彼は、日系二世眼科医ドクトル難波家で長年運転手をしています。

大がらで、母が病気で入院していたときも軽々と担架を担いで上り下りしてくれたりと頼り甲斐のあるメキシコ人です。末っ子が2歳になり本当に可愛い子供たちだと写メを見せてくれたり、難波家の御嬢さんたちにも頼りにされている存在です。

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難波家には12人の子供たちがおり、毎度誰かしら賑やかに迎えてくれたものでしたがそれぞれ独立・成長され出払っておりご夫妻に御嬢さん3人と静かな家の中でした。

そんな難波家でもお礼として伶が「親子丼」を作ることになりました。我が家では普段から子供たちが調理実習で習ったメニューやできるものを作ってくれるので材料や手順は覚えているようです。

国立人類学博物館を長時間見学したあと、ホセ・アントニオと帰り途に夕飯の買い出しにいざスーパーマーケットへ。

伶は、初めては入ったスーパーに並ぶコーンフレークの巨大箱(500g)やコカコーラ・ライフの巨大ペットボトル(3リットル)が標準のその大きさにびっくりしていたようです。果物以外の食品物価は日本とさほど変わりないように思いました。

材料は、鶏肉、いんげん、椎茸(マッシュルームで代用)、卵、和風だし、酒、しょうゆ、砂糖。調味料は難波家にあるので全て揃ってさあ調理開始です。

鶏肉は、何とも黄色くもっちりモチモチしていて、日本で調理するより扱い易かったです。仕上がりも肉のうまみがありパサつきもなく柔らかいのに日本のそれとは大きく違いびっくりしました。

メキシコ鶏はマリーゴールドトウモロコシを餌に食べているので黄色味を帯びていてカロティン豊富で美味なのだとか。

毎度ホームステイでお世話になっているバルバ家では白身のお肉中心で赤身のお肉は食べないとのこと、柔らかく煮込んだ鶏肉の野菜スープsopa de verdulasは絶品でした。メキシコだったら牛肉のステーキでしょ!と思っていたわたしには本当に目から鱗の「美味なる鶏肉」でした。

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それにしても今回、伶との二人旅で、お世話になったご家庭でご飯を作ってお礼の気持ちを伝えようと伶が提案した時は「負うた子に教えられ浅瀬を渡る」まさにその言葉の通りで、

わたしは今までメキシコのご家庭にお世話になることを何度も経験してきたのに仕事(買い付け)などに忙しくそこまで気が廻らなかった事に反省、自分ができることって案外身近にあるものなのだとわかりました。

メキシコで初めて鶏肉を調理し食してみてその美味しさも改めて知りました。

メキシコ出国の朝にはバスルーム・トイレはじめ家中大掃除してから家を後にしました。

伶製「親子丼」は多めに作って、バルバ家お隣の片桐家にもお世話になった御礼としておすそわけし喜んで頂けたようです。

メキシコより帰国以来、あのモチモチした「美味なる鶏肉」が忘れられず特上鶏肉を購入しては調理していますが未だ美味しい鶏肉には出会えていません。メキシコ鶏ほどでないものの黄色味を帯びた鶏肉を見かけるとメキシコで調理したことを思い出しています。sol(1月21日)

メキシコ・モレリアでクッキング!

今回のメキシコ旅行では、ケレタロではホテルに、モレリアでは長男・伶が同じお宅にホームステイしました。

モレリアはミチョワカン州の州都、メキシコ独立運動の父ホセ・マリア・モレ―ロス生誕の地、生家もありそこからモレリアと付きました。パツクアロ湖を擁すメキシコ民芸品の宝庫でもあります。

モレリアと言えば、約2000万のモナルカ蝶(Mariposas Monarca)がカナダから4000キロの旅を約30日間かけてで飛来することでも知られており自然保護区としてUNESCO世界遺産に指定されています。サッカーチーム「モナルカス」はこの蝶の名に由来しています。

標高1921m(メキシコ市は2240m)と、低くはないのに、このご家庭は3年前デザイナーハウス(シークレットガーデンのようなガラス張りの家。恐らく更に300m標高は高い)を新築、市内からここ山手に移転していました。

市街を見おろす眺望は最高!乾季なのに雷雨も多く、朝晩ぐっと冷え、夜は満天の星空が近く朝は滝の流れる音と鳥の声で目が覚める、まるで山で暮らしているような感じでした。

日本でいうところの超高級住宅地で入口はIDカードで制限され、道路は整備されているものの登山靴が必要かと思われるほどの登り坂、徒歩では行き来できない距離で、お手伝いさんさえも送迎つきで通っていました。これこそがブルジョワなんでしょうね。

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お世話になったお礼に「一宿一飯の恩義」で、伶が「チャーハン」を作ることになりました。

最初はラーメンの作り方を教えて!と言われましたが、食べてもらう子供たちが学校で不在だったので、帰宅後再加熱して食べてもらえるよう「チャーハン」にしました。

メキシコ人宅ですが日本好きのご家庭で炊飯器で白米炊いているので残りのご飯を使ってのチャーハンです。玉ねぎをいくら強火で炒めても火通りが遅くてああここは高地だったと改めて実感しました。

そういえばお手伝いの女の子たちも隣でトルティーヤ一枚温めるのにも裏に返したり表にしたりおしゃべりしながらのんびり炙っています。

こんなところにも国民性ってあらわれるんだなと思いました。何事も郷に入っては郷に従えDondequiera que fueres, haz como vieras.ですね。

〆にご飯と生卵をよく混ぜ合わせ、炒めた具材とあわせて更にゆっくりと(?)ぱらっとするまで炒めて仕上げます。

「これなら私にも作れそう!」とセニョーラが喜んでくれ、わたしたちもとても嬉しかったです。sol(1月20日大寒)