キューバ紀行その3

追記

【トロピコーラのこと】

みなさんは「トロピコーラ」をご存じですか?キューバ産コーラでアメリカ時代の名残のひとつ。かなり甘いコーラですが、常温で売られていることが多く炭酸はほぼ抜けているような印象、他に飲み物の選択肢がないことで現地ではとてもお世話になりました。

【映画「ハバナ」】

帰国後ハリウッド映画「ハバナLaHabana」が公開されました。映画と同じ舞台に行ってきたことの懐かしさと興奮、あそこに、あのような華やかな時代があったのだなとしみじみ歴史の長さを感じました。

古く大きなアメリカ車と歴史地区の建造物、要塞、へミングウエイErnestHemingwayが22年間暮らしていた家などは当時のまま佇んでいました。

人々もかつての時代を名残惜しんでいるような、しかし今の暮らしに満足しているのか街のあちこちで陽気な音楽が流れ踊っている人、道端でサッカーをしている子供たち人々はみな明るかったです、さすがラテンの国ですね。

【ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ】

1999年ヴィム・ヴェンダース監督により、同名の音楽ドキュメンタリー映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブBuena Vista Social Club』が制作される。ワールドツアーの模様も収録、映画の後半に映ったカーネギー・ホールでのライヴ録音が2007年に『ライヴ・アット・カーネギー・ホール』としてCD化された。

この映画が日本で上映されたのは確か翌年2000年だったと思いますが、さすがに来日ライブには行けなかったのでせめて映画だけでもと保育園帰り当時1歳半の娘を抱っこしあやしながら夢中になって観たのを憶えています。

こんな素晴らしいライブ映像はめったに観られるものではないのになぜ観客が少ないのかなと思う反面、幸いなことにすいていたので人に迷惑をかけることなく最後まで観きることができた次第です。

【教育と医療事情】

オフィス業務以外の市民はランニングシャツまたはTシャツに短パンにゴム草履という服装が多く、気候が温暖だと生きてゆくのに洋服はあまり必要ないのだなと思いました。

キューバでは「アメリカに半植民地にされたのはアメリカのプロパガンダを国民が見抜けなかったから」というカストロ氏の考えから、教育に国を挙げて力をいれていて教育は無償ラテンアメリカでは最高水準だそうです。

キューバの医療制度はプライマリ・ケアを重視した医療制度を採用、独特の社会福祉政策と同様「キューバ・モデル」として有名である。人口10,000人中の医師数が67.2人と世界で最も多いグループに属する。ファミリードクター制を採用し、各地区に配置された医師が地域住民の健康状態の把握を行っている。家庭医は往診が基本である。医学部は無料で留学生(アメリカ人も含む)も無料である。(Wikipediaより抜粋)

このモデルは本当に素晴らしいことだと思います。キューバの人達はみな胸を張って自慢します。

【ハバナの免税店】

キューバ出国時の免税店ではスペイン語・英語・中国語表記があり中国産のお土産(天然石の置物)などがガラスケースの中で売られていました。日焼けした労働者風のアジア人も多く、聞いた話によると北朝鮮の人達が労働に来ているということです。

わたしたち資本主義国の人間は、社会主義国の人と滅多に会う機会はないけれど、他国ではこのように人や物が流通しているのだなと思いました。

【国際電話】

予定のメヒカーナ航空に乗れずメキシコ市に国際電話を入れた際、キューバでは国営の電電公社みたいなところで10台ほどの電話ボックスがありオペレータが相手を呼び出し相手国とつながったら指定のボックスで話すという方式でした。

かつての日本でも電話交換手がいましたが、ここでは全ての物事にとてつもない時間と手間をかけているたのだなと思いました。

ホテルのエレベータでは丸椅子に腰かけたセニョーラが爪を磨きながら「何階ご利用ですか〜」とボタンを押す光景もあちこちで見られました。ワークシェアならぬ分業体制です。

【アイロン】

同行したマルタはキューバまでアイロン持参で、衣類全てにアイロンをかけてから着用していました。メキシコの物はしわになり易いし衛生面の理由もあってのことだそうです。下着にもアイロンかけているのにはびっくり。「てるひも使う?」と聞かれたけれど、お借りすることはありませんでした。アイロンをかける=Plancharという単語はこのとき覚えたものです。

【バレーボール選手】

ハバナからメキシコへ戻るメヒカーナ航空ではキューバの女子バレーボール・ナショナルチームと同じ便でした。東洋の魔女ならぬ「カリブの魔女たち」でした。

【Intur】

外国人専用ショップTiendasInturは市内数か所にあり、USドルで支払うことができるもののおつりが外国人専用通貨(兌換ペソ)で戻ってきます。ゲームセンターのコインのように軽く使い切るか出国時に寄付する箱が置いてありました。

これからはUSドルで通用する時代の幕開けとなるのでしょうか。sol(4月16日)

キューバ紀行その2

メキシコ観光?に就職してから3年目の1990年7月、仕事でキューバを訪れる機会がありました。

当時メキシコ観光?では、メキシコ駐在の方が夏休みを利用して日本に住んでいる家族を呼び寄せる「呼びよせツアー」なるものがあり往復の航空券に弊社添乗員がつき、初めてメキシコを訪れる人向けに入国書類を用意したり、またメキシコの入国審査・税関などグループ扱いなので安心して旅することができることで評判でした。

そのツアーで添乗を兼ねてメキシコ入りし翌日メキシコ観光メキシコシティ本社社員のマルタ・レイナと共にキューバを訪れました。

*—*—*—*

【1990年7月28日】

メキシコ市からメヒカーナ航空311便でユカタン半島のメリダMeridaへ、(2時間弱)ここで出国審査を行い小一時間でキューバの首都ハバナLaHabanaに到着。

目立つように水色の縦縞柄シャツを着ているのがツアーガイドらしく、今日7月28日がカーニバルCarnaval最終日だったそうで暑い海風が吹き抜ける空港には、スペインやメキシコから到着した外国人観光客で溢れていました。

宿泊は市内にそびえ建つハバナリブレHotelHabanaLibre、(旧ヒルトンホテル)キューバ国営観光会社Cubaturが主催する国内ツアーに申し込み、あとの時間はハバナ市内ホテルインスぺクションに周ります。日本人にも人気のナショナルホテルHotelNacionalは残念ながら改装中でした。

ウエルカムドリンクモヒ―トMojito

キューバ特産ラム酒ベース、ミントとライムが爽やかなカクテルで女性にもお勧め、初めて飲むモヒ―トは暑いハバナにマッチしとても美味しかったです。

【7月29日】

ハバナ旧市街など市内観光へ。

マルタはハバナでしか手に入らないというオメオパタHomeopataを処方してもらいに行っていました。何の薬だかは忘れましたが日本でいう漢方薬みたいのかなと思いました。

【7月30日】

ハバナ西200kmバスで片道約約3時間ビニャ―レス渓谷Valle de Vinalesのオプショナルツアーに参加。US$30.00。

このピニャ・デル・リオPinar del Rioがキューバの中では一番印象的に残っています。むせる緑の匂いと草原の風景は素晴らしく、見渡す限りの桂林のような山々、石灰岩の山脈には鍾乳洞Cueva del Indioがあり、洞窟の中を小舟で遊覧(生まれて初めての鍾乳洞でした)手つかずの自然とはこういうものなのだなと思ったものです。

その後1999年に世界遺産に登録されました。

野外ランチの後、男性に葉巻、女性にはマラカスをプレゼントしてくれました、自分へのお土産ができて嬉しかったです。その後、葉巻タバコ工場で葉巻の作製風景やプランテーションを見学、素晴らしい海岸線を眺めながらハバナに戻りました。

【7月31日】

近場のカサ・ブランカCasaBlancaへ行ってみようかということになり、いざ列車で出発、2時間半、片道20ペソ。

運河を隔てた小島でチェ・ゲバラErnesto Rafael Guevara de la Serna邸もあると聞いていましたが観られず他には何もないのですぐにハバナに戻りボデギ―タBodeguita del Medioで昼食。ご存じの方も多いと思いますがここには壁いっぱいの落書きやサインが残っていて有りし日の面影を見ることができます。

【8月1日】

申し込んだバラデロ行きツアーが催行されなかったのでPlaya del Esteで海水浴。ランチはLaParilladaにて。

午後8:30〜トロピ―カ―ナショウTropicanaへ。

夜8時といってもはまだ薄明るく昼間の暑さも残っていますが、市内から15分ほど移動した野外公園の一角でショウが行われます。

質素な人々の暮らしや街中と比べ裏腹な華やかさを放つキャバレーショウですが、まだ暑さの残る海風に吹かれながら頂くミント入りモヒ―トは爽やかで、同じツアー客のメキシコ人セニョーラたちと乾杯!

【8月2日】

念願のバラデロVaraderoビーチへ!

途中Matansazの町を通り片道3時間。インターナショナルホテルHotelInternacionalにてランチ、ロブスターの炭焼き(US$15.00)を食べる。それは大きなロブスターでプリプリの白身にリモンをかけ頂きました!

【8月3日】

メキシコ市へ移動の日。

翌日4日にユナイテッド航空で日本行きを予定していた為、マルタより一日早くメキシコ市に戻ることになっていました。

朝7時にJoseMarti空港へ行き早めに待機していたにも拘わらずわたしの予約がリコンファームReconfirmされていないという理由で搭乗できず、メキシコへ戻れませんでした。一旦ホテルに戻りマルタに話すと今日はもうメキシコ行きの便がないという。仕方ないのでハバナ市内のメヒカーナ航空へ行き航空券を変更、メキシコ市の本社へ国際電話を入れると―

‘袖の下’でもなんでも飛行機にしがみついてでも乗って来なかったのか

―と当然ながら非常に怒られました。わたしも満席で席がないと言われ頭の中はまっ白でパニック‘袖の下’と言われても余分の持ち合せもなく全く思いつかなかったですし、挙句日本帰国便の航空券も使えず再購入、会社には大損させてしまったという結末です。

今現在リコンファーム(予約再確認)という作業は廃止されましたが、このキューバでの失敗をわたしの旅のモットー「命の次にパスポート」「e-ticket(航空券)」「お金は分けて多めに」という教訓に生かしているつもりです。

【8月4日】

ハバナ/メキシコMX5310便(臨時便)にてマルタと共にメキシコ市へ戻り、翌日8月5日メキシコ発UA838便にてサンフランシスコ経由8月6日成田空港に無事到着しました。

日本からの「呼びよせツアー」でご一緒だった方々には、復路が添乗員なしで一緒に帰国できず本当に申し訳なかったです。お客様の中には「島田さんキューバで大変だったようですが(共産圏から)ご無事で何よりです」と言って下さった方もいらして、改めて無事に帰国できたことに感謝しました。

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日本からキューバへ行く方法は、カナダ経由、メキシコ経由がありスペインや中国からも飛んでいるようです。

天気の良い日にはフロリダ半島のキ―ウエストKeyWestからキューバが臨める(約145km)という話を聞いたことがあります。

伊豆半島から大島(約25km)を臨むことができても東京から大島(約120km)は遠いですね。キューバはアメリカとは目と鼻の先なのに、日本からは遠いのだなとしみじみ思いました。

半島や島々の悲しい歴史はつきものですが、キューバはこれまでの経験から同じ轍を踏むことなく、大国に左右されず独自路線を保ちつつメキシコなど近隣諸国とも上手にやっていくのではないかと思います。

オバマ米大統領は4月14日、キューバに対するテロ支援国家指定を解除することを承認し、議会に通告した。米ホワイトハウスが明らかにした。順調にいけば45日後以降、1982年以来33年ぶりに解除される。その際には、キューバに対する経済援助禁止などの制裁も緩和される。(2015年4月15日朝日新聞より)

経済制裁から脱し国民が経済的に豊かになることは望みますが、できれば手つかずの自然や人々の素朴さはいつまでも残ってくれることを望みます。

将来日本からアメリカ経由キューバ行き最短ルートが開かれる日は近いことでしょう。

キューバ紀行その3(追記)に続く・・・

キューバ紀行その1

2015年4月11日キューバのラウル・カストロ国家評議会議長とアメリカ合衆国バラク・オバマ大統領が59年ぶりに首脳会談に臨みました。

同じ路線の社会主義国からすると手放しでは喜べないかもしれませんが、メキシコ関係の仕事で約30年やってきた私は、このニュースを聴いて雪解けのような感じがしてなんとなくホッとしています。

わたしが初めてキューバを訪れたのは1990年まだフィデル・カストロ・ルスFidelCastroLuz国家評議会議長が国家元首だった時代です。

1959年キューバ革命から56年が経ち、1990年に渡玖してから実に25年も経過したことになります。

キューバCuba「カリブの真珠」と呼ばれるカリブ海に浮かぶ美しい島で、スペイン語では「ク―バ」と発音します。因みに漢字表記は「玖馬」と書きます。

キューバ紀行を書く前に自分自身もキューバの歴史の復習です。

1492年 サン・クリストバル・デル・コロン(コロンブス)キューバ島に到着(12月27日)

1509年 ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャル、キューバ総督に任命

1868年 第一次独立戦争(10年戦争)開始

1895年 ホセ・マルティ、オリエンテのラプライータに上陸、第二次独立戦争開始(4月10日)

5月19日 マルティ戦死

1898年 米西戦争(2月)

1902年 独立、エストラーダ=パルマ政権発足(5月)

1903年 アメリカ、グァンタナモ湾を租借

1952年 バティスタ軍曹のクーデター(3月)

1953年 モンカダ兵営襲撃(7月26日)、モンカダ裁判(9月)

1955年 フィデル・カストロ恩赦、メキシコへ亡命

1956年 グランマ号でオリエンテ州に上陸(12月)7月26日運動、活動開始

1957年 革命幹部会による大統領官邸襲撃(3月)

1958年 反乱軍の最終攻勢始まる

1959年 バティスタ大統領亡命(1月1日)

2月17日フィデル・カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命)

4月15日 フィデル・カストロ、ニューヨークへアメリカ政府に対する表敬訪問。アメリカ政府はアイゼンハウアー大統領がゴルフに出かけたとの理由で首脳会談を拒否

5月17日 農地改革法公布

1960年 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当廃止の意向発表

2月4日 アナスタス・ミコヤンソ連副首相訪問、キューバ・ソ連通商条約調印

4月4日 ユナイテッド・フルーツ社有地が接収される

6月29日 テキサコ製油所介入

7月1日 エッソとロイヤル・ダッチ・シェルの製油所へ介入

7月2日 アメリカ政府、キューバ砂糖輸入割当制度を廃止

8月6日 アメリカ企業接収

1961年 アメリカと国交断絶(1月3日)

4月4日 傭兵軍航空機によるハバナなどへの航空施設爆撃。

4月16日 フィデル・カストロ、社会主義革命宣言

4月17日 反革命傭兵軍上陸事件(- 19日 ピッグズ湾事件)

4月25日 アメリカ、対キューバ全面的貿易封鎖発表

1962年 キューバ危機(10月15日)、ケネディ米大統領、対キューバ海上封鎖宣言(10月22日)

10月27日 オリエンテ州北部でU-2機撃墜

10月28日 フルシチョフ・ソ連首相、ミサイル撤去受け入れ

1963年 フィデル・カストロ、初のモスクワ訪問

1965年 キューバ共産党結成

1967年 フィデル・カストロ、チェ・ゲバラのボリビアでの死亡を発表

1975年 第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化

1976年

新憲法(現行憲法)制定

クバーナ航空455便爆破事件。傭兵軍のルイス・ポサダ・カリレス、乗客乗員73人全員を殺害

1977年 アメリカと利益代表部設置で合意

1981年 革命ニカラグアへ派遣した教師が暗殺

1983年 アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵

1992年 憲法改正により、キューバを社会主義国家と定義。米国でトリチェリ法[5] 成立、ジョージ・H・ブッシュ大統領が署名

1993年 ドル所有の合法化

12月22日 フィデル・カストロの実の娘、アリナ・フェルナンデスがアメリカへ亡命

1995年 米・キューバ移民協議、難民問題でアメリカ政府と合意[6]

1996年 アメリカでヘルムズ=バートン法[7] 成立、クリントン大統領が署名

1998年 ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世のキューバ訪問

1999年 アメリカ、対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表、エリアン少年事件

2000年 アメリカによる対キューバ経済制裁の一部緩和措置発表

2001年 アメリカからへの食糧購入開始

2002年 ジミー・カーター元アメリカ大統領キューバ訪問。憲法改正

2005年 米国務長官コンドリーザ・ライス、キューバを北朝鮮やイランと並ぶ「圧制の拠点」と発言し、打倒すべき独裁政権の一つにあげた。 キューバ航空機爆破、フィデル・カストロ暗殺未遂など親米テロの廉で逮捕され、保釈後ベネスエラへ逃亡していた傭兵軍のカリレス、アメリカへ亡命を求めて脱出するもマイアミで逮捕される

2008年

2月 フィデル・カストロ、国家評議会議長引退を発表

2月24日、ラウル・カストロが国家評議会議長に選出

2009年

6月 米州機構総会においてキューバの復帰が認められる。しかしキューバは復帰を拒否。

2011年 部分的に市場経済が導入される

2014年

12月18日、アメリカ合衆国との国交正常化交渉を開始すると発表

2015年4月11日、59年ぶりのアメリカ・キューバ首脳会談が行われる

(Wikipediaより抜粋)

キューバ紀行その2へ続く・・・