東北関東大震災と関東大震災

地震発生から2週間が過ぎ、日常生活も落ち着きを取り戻したかと思う頃に日に3回ほど震度3〜5の余震が起こるので、緊張の毎日が続いています。

岩手、宮城、福島、茨城各県の太平洋沿岸では死亡・不明の方々が2万6千人を超え、一日も早く安否が確認できることをお祈り申し上げます。

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今回の東北関東大震災は(とうほくかんとうだいしんさい)は平成23年(2011年)3月11日(金曜日)午後14時46分、マグニチュード9.0を記録、その地震による東北太平洋岸を襲った大津波、そして福島の原子力発電所の水素爆発と未曽有の大惨事となっています。

88年前の関東大震災(かんとうだいしんさい)は、大正12年(1923年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害である。

千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、9月1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(上述のとおり、近年の学界の定説では、死者・行方不明者は10万5000人余と見積もられるようになった)。(Wikipediaより)

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わたしたちが小学校時代はまだ関東大震災の教訓があって「地震発生」→机の下にもぐる、そして「給食室から火災発生」→防災頭巾(銘々の座布団)を被って校庭に避難、という避難訓練を行っていました。

名古屋に住む友人は小学校時代、カッパを着て防災訓練をしていた(原爆の放射能から身を守る)そうです。沿岸地域は津波対策、地震対策などそれぞれの地方によって違いこそあれ何かしら災害への訓練は行われてきているのですからこういう非常時こそ落ち着いてその成果が生かせるといいと思いました。

今回の地震発生以来、小学生は防災頭巾を被って登下校していましたが、普段は学校椅子の自分の座布団が、電線や瓦屋根などの落下物から身を守るための防災頭巾であることを、初めて知ったお子さんも多かったのではないかと思います。

親である私たち自身も、自治会の避難訓練や小学校の引き渡し(震度5以上発生時に引き取りに行く)訓練では地震当日の経験を忘れず、いつ災害が起きても慌てない心構えを持って臨まなければいけませんね。

昨日の卒業式にても式場の椅子下には銘々の防災頭巾が置いて準備してありました。

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その昔、父方の京都の祖父・島田真二郎に関東大震災はどんなだったか問うたことがありました。それはガタガタとよう揺れた、これはえらいこっちゃ!と思ったと話してくれたことを思い出しました。

そしてこのブログを書いていて関東大震災が伯母が生まれた大正12年であったことに気付きました。早速伯母に話を聞いてみると、伯母は北海道で生まれで、テレビもない当時のことですから大変だったらしいけれども関東大震災は遠い本土の震災という記憶しかないそうです。

その後の伯母はは祖父の仕事で転勤が多かったため新潟、神戸などで暮らし、関東に戻ってきたのは10年後だったそうで、関東大震災での被災は免れたとのことでした。

戦争時代こそ経験してきた伯母ですが、戦時中は公務員として南方へ赴き戦勝国民として暮らし本土のような悲惨な思いはしなかったと話してくれました。90年近く生きてきて、伯母なりの苦労もあったと思いますがその間に戦争や様々な災害が起こったのにも拘わらず大きな災難を免れて来られた、伯母本人は気付いていないようですけれど、ささやかだけれどもこんな幸せなひともいるんだなと思いました。

伯母はいつも「老い先長くないんだから」というのが口癖ですが、残りの人生も恙無く毎日を楽しみ過ごしてほしいものだと思っています。sol(3月25日)