計画停電で思うこと

お向かいのお宅の梅の枝が紅白色鮮やかに咲き始め、庭のラッパ水仙も次々と黄色い花を開き始めました。買い物の行き帰りに、ああ花々を愛でたり香りを嗅いだりするゆとりがほしいなと思いながら歩いています。椿の侘介も咲き始めました「年々歳歳花相変わらず」春はもう来ています。

関東地方では震災後の原子力発電所事故により電気量不足の対策から東京電力による5グループに分かれ一日3時間ずつの計画停電が実施されています。

【計画停電(輪番停電)】

電力の需要が供給を上回り、大規模停電が起きる恐れがある場合、電力会社が地域ごとに順番に一定時間の電力供給を止めること。企業などに使用抑制を要請するが、それでも電力不足が解消されなければ計画的に停電を実施して混乱を避ける。

メキシコでは落雷を避けるために電圧を落としたり停電したりします。特に雨季にメキシコを訪れ、午後の激しい雷雨の中で停電を経験した方も多いのではないでしょうか。

また電力供給不足ならば他から送電すればいいのにと思いましたが

東日本大震災で福島第1、第2原発が停止、東京電力の電力供給量は震災前より約4割ダウン、被害のなかった西日本から送電を受けてはいますが供給が追いつかないという状況だそうです。

東日本が50ヘルツ西日本は60ヘルツという周波数で、西日本の電気を東日本で使うには周波数を変換する必要があり、それも供給不足に影響しているとのこと。

明治時代、発電機が導入された当時、関東にはドイツ製の50ヘルツの発電機、関西には米国製の60ヘルツの発電機が輸入され、静岡県の富士川から新潟県の糸魚川を境界に東日本は50ヘルツ、西日本は60ヘルツという周波数の違いが定着。現在日本には、周波数を変えられる変換所は3カ所しかなく、変換能力は計100万キロワットが限界とのこと、戦時下で導入が間に合わなかったのも理由とされているそうですが今までそんな不便なことによく対応していたものだと、また統一しようということはなかったのか、不思議に思います。

*—*—*—*—*

停電時間中は病院、飲食店、スーパーはお休み。開店中でも節電でショウケースの消灯は当たり前、しかし暗くても商品を手に取れば見ることはできます。停電時間終了後はまた開店するというようなサイクルに慣れてきました。地震発生から一週間、棚が空っぽだった食料品も少しずつ供給されはじめ落ち着きを取り戻しつつある状況にはなってきたように思います。しかしほっとした頃に震度3〜5の余震があるのでまだまだ油断はできません。

我が家はオール電化住宅なので全ての電気機器が使用できなくなります。

トイレはリモコンで流せない、IHクッキングヒータが使えない

NTT光ファイバーは停電時には使えないのでパソコンも電話も通じない、などなど。

(隣に夫の両親宅があり、ものときにガスが使えるという安心感はあります)

トイレは停電前に済ませる(ため水で勢いよく流す、または手動で)、停電中は調理しない、お互いが停電時、電話通じなくても心配しない、など発想の転換で行動することにしています。

しかし高齢の義父が申すには停電時トイレの便座が冷たいのが一番こたえると言っておりました。

*—*—*—*

義母が在宅介護中なので、医療器具を使用、停電時はとても困りますが母も協力してくれているのか咳一つせずに居てくれています。母は吸引機ですが常時装着の重症な患者さんも多く、電源が必要な方はそれはたくさんいらっしゃることと思います、一日も早い復旧を願うばかりです。

またガソリン不足から介護サービスに滞りが出てきています。お風呂サービスも、巡回ヘルパーさんもガソリンがなくて車が使えず延期や遅れ、中には自転車や徒歩で時間をかけて回ってきてくれているヘルパーさんや看護婦さんがいます。

被災地へのタンクローリ300台分のガソリン配送が始まりました。

自家発電にしてもガソリンが必要ですから、何より燃料を一番必要としている被災地が最優先だと思うのですが、ここ数日、近所の幹線沿道は給油を待つ車の行列で渋滞しています。

テレビでは公共機関の電車やバス利用を言ってはいますがそれを公の機関が推奨・奨励することまたは自転車に切り替えるなど声かけを行ってもよいと思うのですが個々人の判断に任せており実施はされてはいません。

緊急時などのためにガソリンを確保することも大切ですが、供給が再開し安定するまでの間だけでも「使わない工夫」もあってもいいと思うのですがみなさんはどのようにお考えでしょうか。

電気代は昨年の同月と比べればどれだけ節約できたか目に見えてわかります。しかし今回のように自分が節約した分がどれだけの人のお役にたてたのか具体的にわかるような策(例えば1回の給油節約で被災地一週間分の体育館暖房費に変わりますなどが表示されるなど。)が今の私たちには必要なのかもしれません。

これは私が帰宅難民となり避難所で一晩過ごした経験からで、地震当日の夜は寒かったですから、風をよけて温かく安心して眠れる場所と暖かい毛布、食糧・水(余震が続いていたので不安もありましたが)それらがどんなに有難かったことか!

そして今被災地では暖房と温かい食べ物を必要としているとのこと、場所は違えど同じ大きな地震を共に経験したのですから被災地の人の気持ちもきっとわかるはずです。

*—*—*—*

日本での電気は、1882年(明治15年)に東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)に始まり、京都では1914年(大正3年)新潟では1928年(昭和3年)すでに電気の生活だったとのこと、義父の住んでいた宇都宮では1941年(昭和16年)頃にそれまでのランプの生活から電灯の生活に切り替わり普及していったそうです。

ふとテレビの時代劇を観ると蝋燭、または油に火を灯したり行燈などが目に入りそれだけの明りでも十分だったということがわかります。でもその分火事も多かったのでそのために火消しも多くあったとか。

日本画家の上村松篁の画集の文中とても印象に残る文章があった事を思い出しましたのでご紹介します。

大正3年の夏、京都御所の近く、今の間之町竹屋町へ転居、変わったことの第一はランプの生活から電灯生活に切り替わったことである。夜遅くまで絵を描くことの多い母松園にとって、それは文字通り手元を照らす光明であった。以来、母の絵が明るくなったように思われた。(上村松篁の画業より)

電気の歴史がそう古くないことを知り義父と話をしていましたら、義父が幼少の頃はランプの生活で、黒いすすが溜まったらランプ掃除は子供の仕事だったこと、木の電柱が建てられ裸電球(電気)が通ったのは確か小学校2年生の頃だったことなどを話してくれました。

それまでは月明かりで勉強していたそうです。

わたしたちも今回の停電で窓の外を見ているうちに次第に目が慣れてきて案外暗闇でも物を見ることができることを知りました。

停電中、子供たちが懐中電灯で勉強をしていたので、こんなにたいへんなら次からは明るいうちに済ませておこうと言っていました。

節約することによってみなで電気を分け合っている、節約したその分が被災地の人にも役立っていると思うと必要なだけまたは気候が暖かくなるまで続けてほしいと切に思います。子供には、自分のことしか考えられない人ではなく願わくばみなの事や先々の事も考えられる人間になってほしいと願います。

それにしても計画停電で学んだことは、停電が終了し明りが燈ったときのその安堵感電気があることの有難さ大切さではないでしょうか。

被災地の人々の事を想うともっと何かできることがあるのではと考える日々ですが、今できることは被災地にできるだけたくさんの物資と燃料を間接的にでも届けることが優先かと思います。まだ続く計画停電に際しては更なる工夫をこらして過ごしていこうと思っています。

我が家の電気代は春はだいたい6000円ほどですが、暖房使用の多かった1月16000円、先月12000円、今月は果たしてどの位でしょうか、またご報告することにいたします。sol(3月20日)

null

▲停電の中で大活躍の「充電たまご」

携帯電話などの充電器、懐中電灯、ラジオそしてサイレンが備えられ手回し充電で使えます。16年前の阪神淡路大震災後に購入し今に役立っています。