東北関東大震災

この度の東北関東大震災により被災されました方々に、心よりお見舞い申し上げます。

特に被害の大きかった東北地方の方々、被災地の惨状は本当に目を覆いたくなりますが、 現在も救助を待っている方が大勢いらっしゃるとのこと一刻も早く救出されることを祈るばかりです。

地震発生時メールやお電話のご連絡をくださった方々ご心配いただきありがとうございました。

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通信手段としては通常でしたらば携帯電話が主ですが、今回は発信できず通じず、メール送信できず、i-modeも利用できず。地震発生から3日経った今日もメールは可能ですが電話利用できない時間帯が多いです。またあとで聞いたところによりますとソフトバンクやスマートフォンは通信状態はよかったようです。

171伝言ダイヤルに操作しようにも電池残量のことが気になりできませんでした。今の若い人たちなら早打ちで処理できるのでしょうけれどもわたしの技量では不可能です。

たまに送信できても届いていないのか返信来ず、あとで確認しましたら大幅な時間差で届くというような状況だったようです。通信で使えないのに電池ばかりが消耗していくことにとても焦りとストレスを覚え、自分は無事なんだからいっそ電源切ってしまおうかと何度も思いましたが何か連絡が入った時のためにドコモショップを見かけては充電しなんとかつなぎました。

要するに携帯自体の役割を果たしていなかったわけですが、習慣とは恐ろしいもので持っている安心感と時計と懐中電灯として役割だけは果たしてくれました。

文明の利器に頼りすぎていたわたしたちですが、今回のことで災害時では公衆電話が一番確実ということを再認識(思い出した)したのでは私だけでしょうか。

しかし街中で、出番がなくめっきり少なくなってしまった公衆電話はなかなか見当たらずようやく見つけても長蛇の列。とにもかくにも地震翌日3月12日(土)朝にようやく皆の安否が確認でき安心した次第です。

神奈川県川崎市在住の島田正治・和子はガス止めと停電で電話不通になっていましたが翌朝には通じたようです。姉家族もみな無事です。

千葉県松戸市在住の伯母のところが揺れが大きかったのか、食器棚中が割れて被害、落下物で後片付けも大変だったようです。

埼玉県さいたま市の自宅オフィスは大きな被害なし、佐々木一族も都内に住む義弟夫婦含め現在のところ皆無事でおりますのでどうかご安心ください。

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わたしは中目黒(ほとんど渋谷に近い場所)で地震に遭い、船の上にいるような大きな長い揺れを経験しました。

両親がメキシコ・チャパラ在住だったころやはり長周期振動の地震に遭遇した際「プールの水がたっぽたっぽと大きく揺れ左右に溢れ出ていた」と言っていたのを思い出し「ああこんな揺れのことか」という事と、何本もの黒い電線が大縄跳びのようにグラングランと揺れていたことが地震の最初の印象です。

それから、ふと我に返り携帯電話の時計をみると14時46分、子供たちは学校で大丈夫だったかな自宅は大丈夫だったかな、しかし直下型でないから食器などは倒れていない大丈夫だな、なんて事を考えていました。 直後もうすでに携帯電話は不通となっていました。

だいぶ以前に偶然渋谷で大きな音量で携帯が鳴り「緊急地震警報です」と連絡が入り今から地震災害時の訓練がありますのでこの地域に居る人は参加してくださいということで行ってみました。

場所も今回と同じ渋谷だったことでそのときの記憶が鮮明に思い出されそのとき習ったマニュアルが今回の災害に役立てることができました。やはり災害を想定した訓練は必要ということですね。

?家族の安否をまず確認し

?そして自分の安全も確保(帰宅不可能なときには無理に帰宅は考えないで避難所で待機)

?都内からの避難経路を確認、途中コンビニや公官庁などではトイレや飲料を提供しているので落下物に注意し自力で帰宅。

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地震が起きた14時46分は子供たちが確実に学校に居るだろうという時間帯だったので先生方は対応で大変だったことでしょうけれど親にとってはそれは不幸中の「大きな幸い(安心)」と思いました。

娘は校庭に亀裂が入ったのを見てこれは大変だと思ったそうです。

JR全線止まり歩いて帰ろうかとも思いましたが確か避難訓練は夏場でしたから、今回の寒さは想定外で寒くて徒歩で帰ろうという気にはなれず、一刻も早く暖をとりたいと思いが先にたちました。

もう日暮れで余震もあり幸い避難所で受け入れてくれたので毛布を借り横になって寝て過ごし翌朝運転再開している東京メトロ南北線で帰宅しました。わたしはそんな状況でしたが、夫は地震当日の夜中に動き始めた東京メトロ南北線で最寄駅から2時間近く真っ暗な農道の中を歩き続けて家族のために先に帰宅してくれていました。夜中2時の帰宅だったそうです(本当にありがとう!)。

避難所では大学生のお嬢さんと知り合い、若い世代の考えなどお聞きしたり話しながら一晩不安感なく過ごすことができました(本当にありがとう!)。

阪神淡路大震災を経験された方でしたら当然のことと思いますが

小銭を含めた現金、食糧、水、トイレ、防寒(避難所で配られた「EMARGENCY BLANKET」ビニルとアルミ箔を合わせたような素材が保温に役立ちとても温かかったです=さすがサバイバルの国アメリカ製です)そして携帯の充電器これは通じなくともあったほうが安心とは思いました。

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最初の大きな揺れの後ドコモショップで充電中しなければと、ふとテレビ画面を見ましたら「仙台から中継」映像で、恐ろしいほどに静かな波が、いとも簡単に防波堤を乗り越え、家や車、人までもを津波が飲み込んでゆく光景に声も出ず涙が止まりませんでした。

その映像はヘリコプターから撮影しているのでしょうけれど、画面の目の前で、今まで逃げて走っていた人が、今まで道路を走っていた白い車が、大型トラックを停めて荷台で手を振って避難を求めている人が、次から次へと容赦なく津波が飲み込んでゆく有様はそれは凄まじいものでした。

地震で火災が起きて燃えたままの家屋が、黒い濁流の中あちこちで煌々と燃えながら押し流されていきます。

自然の威力は止められないと、思いました。

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メキシコの友人たちからも「TSUNAMI」大丈夫かと問合せが殺到し、辞書ひき引き返信メールを打ちました。夫あてにもヨーロッパ各地から安否確認メールが入っていましたがみな共通に「TSUNAMI」を心配した内容でした。

昨日は、ライフラインが止まった時の食品買出しに半日を費やしました。人間考えることは同じだなと、ほしいなと思うもの全て棚が空っぽでした、早い者勝ちですね。一家族分となると水(一日あたり一人3リットルが目安)も食糧も結構な量になります。

「備えあれば憂いなし」とはよく言ったものですが家族で3日分ほどの備蓄食糧を買い揃えましたら不安もなくなり気持ちも落ち着いてきました。

私たちが小学生時代はまだ関東大震災を経験している人も多かったのでこの言葉がよく使われていましたが、今の子供たちにはいまひとつピンときていないようです。

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福島相馬は義母の育った土地で、いわき市や茨城大洗へは週末旅行や海水浴で行っていました。浪江には義妹さんのご家族が住んでいます(避難してご無事)。さいたま市のスーパーマーケットでは気仙沼や石巻、いわき産の海産物も多く、義母の好物くるみゆべしが売っていたので購入し製造所を見たら福島の名取工場でした。

またいつの日かあの美しい自然と海と人々に会いに行けるときがくることを願って止みません。

義父は、米と水があれば庭で炊き出しできるので一週間は生きていけると言っています。

阪神淡路大震災新潟大地震で被災されたみなさんの気持ちがよくわかりました。3月16日までに70%の確率で大きな地震が予測されるとのこと本日小学校は徒歩で通常登校、県立高校は休校、運行している路線を求めて会社員の人たちが右往左往また通勤を自転車に切り替えたりしているようです。

朝も夜も余震で先ほども何度目かの地震がありました、震度3くらいでしょうか。いつも体が揺れているような感覚です。

地震発生時それぞれの場所に離散していた家族が、一緒にいられるそれだけで安心、幸せに感じた週末でした。

東北地方太平洋沖地震、東日本大震災、そしてマグニチュード9.0と判明し「東北関東大震災」となり地震、津波、原子力発電所の爆発事故、救助。そして今後もまだ地震が続く様子何が起こるかわかりませんが無事であればまたこちらのブログにてお知らせ申し上げたいと思います。

多くの亡くなられた方々のご冥福をお祈りしつつ、命あることに心から感謝して。

2011年3月13日、日曜日

佐々木てるひ

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▲アメリカ製のエマ―ジェンシブランケット