ベクレルとシーベルト

雨上がりの3月23日水曜日、県内各地で卒業式が執り行われました。

わたしも、娘の卒様式に参列して来ました。

地震後、給食がストップしたり集団下校になったり歓送迎会も中止で小学校課程終了間際になって様々な事があったにも拘わらず、また避難所で卒業証書授与式が行われていたりしている事から考えると、無事にこの日が迎えられたことに心から感謝します。

東北3県で亡くなった児童生徒は184名にのぼり、先日の卒業式ではは148名でしたから一学年分もの児童の命が失われたかと思うと本当にやりきれない気持ちでいっぱいです。ご冥福をお祈りします。

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思い出に残るいい式だったなと感慨に浸って校門から校舎を眺めていましたら、ふと足元に黄色いペンキの痕(ポタッと滴った痕)のようなものがあることに気付きました。

見廻すとあたり一面に黄色いものが付着しているんです。

ん〜、これは花粉のような真っ黄色で天然の黄色さだけれども、今まで見たことがないものでした。

夜のニュースで「黄色いものは花粉」と報道されて、一旦は納得したものの、初めてのことで何だかしっくりこない。放射能と合わさって化学反応を起こしたのかと思いました。(これには息子もあきれ顔)

今日はそれらをすべて雑巾で拭って水で洗い流したつもりですが果たしてそれで大丈夫なのか!?不安も残ります。

「黒い雨」ならぬ「黄色い雨」で、不安に過ごした二日間でした。

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(毎日新聞より抜粋)

Q「ベクレル」と「シーベルト」との違いは?

 A ベクレルは放射線を出す強さの単位で、体への影響を見るにはシーベルトに換算が必要。1キログラムあたり1万5020ベクレルのヨウ素が検出されたホウレンソウを食べたときの影響は0・33ミリシーベルト。日本人のホウレンソウ1日の平均摂取量は約15グラムなので、実際の影響は0・0049ミリシーベルトになる。

上記だけでは???

ちょっと理解し辛いですよね。

今朝の産経新聞にとてもわかりやすい説明が掲載されていましたので以下にご紹介します。

放射線の人体への影響をわかりやすく考える場合、焚火に置き換えればいい。焚火から1メートル離れた場所と5メートルとでは体が受ける温かさに差が生じる。同じ1メートルの場所でもアイスクリームを1分間置くと少し溶けるが5分間置くともっと溶ける。このことで放射線を長く浴び続けるほうが影響が大きいことが理解できる。また同じ1メートルに5分間おいてもアイスクリームなら溶けるがかぼちゃなら溶けない。焚火から受ける影響は物質によって異なる。距離も時間も含めて最終的に人が受ける影響を表す場合の単位が「シーベルト」

またどんな場合でも無駄な被爆は避けるべきだが現在は「本来あるべきでない放射性物質」が大気中に放出されている状況。政府はまず危機管理方針を説明したうえで年間50ミリシーベルト(医師などが1年間に被爆する許容量)を基準に危機管理を徹底すべきである。(放射線災害研究所 郡山一明所長)

日本は原発からの避難距離を20キロ圏に指定した際、アメリカ政府は既に在日米国人に80キロ圏外への避難指示を出していました。これにも不信感を抱かずにはいられませんでした。一刻も早くきちんと説明の上での指示を出してもらいたいものです。

Q 食べ続けても大丈夫?

 A 日本人は普段も摂取した魚や野菜などから年間0・3ミリシーベルトを受けている。関澤純・元徳島大教授によると、ホウレンソウは洗ったり、ゆでたりすれば放射性物質はかなり減る。

 牛乳は「最も汚染されたもの(福島県の約1500ベクレル)でも、数回飲むくらいなら自然被ばくの10分の1以下で、飲み続けなければ大丈夫」という。

 ◇現状、雨にぬれても影響なし

Q 水道水は飲んでいいの?

 A 水1リットル(1キログラム)当たりの摂取制限の指標はヨウ素で300ベクレル、セシウムで200ベクレル。福島県内では17日、一時的に308ベクレルのヨウ素が検出された。厚労省は指標を超えた場合、飲用は控えたほうがいいものの、風呂や手洗いなどには問題ないとしている。飲用水がなければ、飲んでも差し支えないとの見解も示している。

Q 雨が降ってきたら?

 A 文部科学省は全国の都道府県などに対し、地上に落ちたちりや雨に含まれる放射能を調査し、可能な限り毎日、報告するよう求めている。20日発表されたデータでは栃木や群馬、埼玉などの都県で微量な放射性ヨウ素などが検出されているが、雨にぬれても健康に影響はないと考えていいレベルだ。ただし田中俊一・元原子力委員会委員長代理は「このまま大気中の放射性物質濃度が高い状態が数カ月続くと、健康への影響が心配になってくる」と話す。

 できる限り被ばくを抑えたい人は(1)外出は雨がやんでからにする(2)髪や皮膚がぬれないようにする(3)気になる場合は、流水で洗う−−ことを心がけたい。

Q 食品の汚染が心配なときはどうやって食べればいい?

 A 放射線医学総合研究所のホームページによると、野菜は、洗う▽煮る(煮汁は捨てる)▽皮や外葉をむく−−ことで汚染の低減が見込める。

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一部の被災地域ではうがい薬を飲むと被爆解毒になるとでまかせが広まっているようですが、それはないとのこと。

自然界にある海藻類に含まれているヨウ素やうがい薬の有効ヨウ素、それらは放射性ヨウ素と異なるもので大丈夫イソジンうがい薬は規定通り薄めて使用しましょう。

1週間前には大変な行列で購入しませんでしたが、1リットル当たり151円とはなったものの今日はもうガソリンスタンドは平常通りの営業でした。同様に何事も風評に惑わされず落ち着いて判断・行動することを心がけたいものです。sol(3月28日)

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▲今日、被災地の保育園を通じて思い出のランドセルを寄付しました。ピカピカに磨いて送り出しました。

東北関東大震災と関東大震災

地震発生から2週間が過ぎ、日常生活も落ち着きを取り戻したかと思う頃に日に3回ほど震度3〜5の余震が起こるので、緊張の毎日が続いています。

岩手、宮城、福島、茨城各県の太平洋沿岸では死亡・不明の方々が2万6千人を超え、一日も早く安否が確認できることをお祈り申し上げます。

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今回の東北関東大震災は(とうほくかんとうだいしんさい)は平成23年(2011年)3月11日(金曜日)午後14時46分、マグニチュード9.0を記録、その地震による東北太平洋岸を襲った大津波、そして福島の原子力発電所の水素爆発と未曽有の大惨事となっています。

88年前の関東大震災(かんとうだいしんさい)は、大正12年(1923年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害である。

千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、9月1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(上述のとおり、近年の学界の定説では、死者・行方不明者は10万5000人余と見積もられるようになった)。(Wikipediaより)

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わたしたちが小学校時代はまだ関東大震災の教訓があって「地震発生」→机の下にもぐる、そして「給食室から火災発生」→防災頭巾(銘々の座布団)を被って校庭に避難、という避難訓練を行っていました。

名古屋に住む友人は小学校時代、カッパを着て防災訓練をしていた(原爆の放射能から身を守る)そうです。沿岸地域は津波対策、地震対策などそれぞれの地方によって違いこそあれ何かしら災害への訓練は行われてきているのですからこういう非常時こそ落ち着いてその成果が生かせるといいと思いました。

今回の地震発生以来、小学生は防災頭巾を被って登下校していましたが、普段は学校椅子の自分の座布団が、電線や瓦屋根などの落下物から身を守るための防災頭巾であることを、初めて知ったお子さんも多かったのではないかと思います。

親である私たち自身も、自治会の避難訓練や小学校の引き渡し(震度5以上発生時に引き取りに行く)訓練では地震当日の経験を忘れず、いつ災害が起きても慌てない心構えを持って臨まなければいけませんね。

昨日の卒業式にても式場の椅子下には銘々の防災頭巾が置いて準備してありました。

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その昔、父方の京都の祖父・島田真二郎に関東大震災はどんなだったか問うたことがありました。それはガタガタとよう揺れた、これはえらいこっちゃ!と思ったと話してくれたことを思い出しました。

そしてこのブログを書いていて関東大震災が伯母が生まれた大正12年であったことに気付きました。早速伯母に話を聞いてみると、伯母は北海道で生まれで、テレビもない当時のことですから大変だったらしいけれども関東大震災は遠い本土の震災という記憶しかないそうです。

その後の伯母はは祖父の仕事で転勤が多かったため新潟、神戸などで暮らし、関東に戻ってきたのは10年後だったそうで、関東大震災での被災は免れたとのことでした。

戦争時代こそ経験してきた伯母ですが、戦時中は公務員として南方へ赴き戦勝国民として暮らし本土のような悲惨な思いはしなかったと話してくれました。90年近く生きてきて、伯母なりの苦労もあったと思いますがその間に戦争や様々な災害が起こったのにも拘わらず大きな災難を免れて来られた、伯母本人は気付いていないようですけれど、ささやかだけれどもこんな幸せなひともいるんだなと思いました。

伯母はいつも「老い先長くないんだから」というのが口癖ですが、残りの人生も恙無く毎日を楽しみ過ごしてほしいものだと思っています。sol(3月25日)

計画停電で思うこと

お向かいのお宅の梅の枝が紅白色鮮やかに咲き始め、庭のラッパ水仙も次々と黄色い花を開き始めました。買い物の行き帰りに、ああ花々を愛でたり香りを嗅いだりするゆとりがほしいなと思いながら歩いています。椿の侘介も咲き始めました「年々歳歳花相変わらず」春はもう来ています。

関東地方では震災後の原子力発電所事故により電気量不足の対策から東京電力による5グループに分かれ一日3時間ずつの計画停電が実施されています。

【計画停電(輪番停電)】

電力の需要が供給を上回り、大規模停電が起きる恐れがある場合、電力会社が地域ごとに順番に一定時間の電力供給を止めること。企業などに使用抑制を要請するが、それでも電力不足が解消されなければ計画的に停電を実施して混乱を避ける。

メキシコでは落雷を避けるために電圧を落としたり停電したりします。特に雨季にメキシコを訪れ、午後の激しい雷雨の中で停電を経験した方も多いのではないでしょうか。

また電力供給不足ならば他から送電すればいいのにと思いましたが

東日本大震災で福島第1、第2原発が停止、東京電力の電力供給量は震災前より約4割ダウン、被害のなかった西日本から送電を受けてはいますが供給が追いつかないという状況だそうです。

東日本が50ヘルツ西日本は60ヘルツという周波数で、西日本の電気を東日本で使うには周波数を変換する必要があり、それも供給不足に影響しているとのこと。

明治時代、発電機が導入された当時、関東にはドイツ製の50ヘルツの発電機、関西には米国製の60ヘルツの発電機が輸入され、静岡県の富士川から新潟県の糸魚川を境界に東日本は50ヘルツ、西日本は60ヘルツという周波数の違いが定着。現在日本には、周波数を変えられる変換所は3カ所しかなく、変換能力は計100万キロワットが限界とのこと、戦時下で導入が間に合わなかったのも理由とされているそうですが今までそんな不便なことによく対応していたものだと、また統一しようということはなかったのか、不思議に思います。

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停電時間中は病院、飲食店、スーパーはお休み。開店中でも節電でショウケースの消灯は当たり前、しかし暗くても商品を手に取れば見ることはできます。停電時間終了後はまた開店するというようなサイクルに慣れてきました。地震発生から一週間、棚が空っぽだった食料品も少しずつ供給されはじめ落ち着きを取り戻しつつある状況にはなってきたように思います。しかしほっとした頃に震度3〜5の余震があるのでまだまだ油断はできません。

我が家はオール電化住宅なので全ての電気機器が使用できなくなります。

トイレはリモコンで流せない、IHクッキングヒータが使えない

NTT光ファイバーは停電時には使えないのでパソコンも電話も通じない、などなど。

(隣に夫の両親宅があり、ものときにガスが使えるという安心感はあります)

トイレは停電前に済ませる(ため水で勢いよく流す、または手動で)、停電中は調理しない、お互いが停電時、電話通じなくても心配しない、など発想の転換で行動することにしています。

しかし高齢の義父が申すには停電時トイレの便座が冷たいのが一番こたえると言っておりました。

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義母が在宅介護中なので、医療器具を使用、停電時はとても困りますが母も協力してくれているのか咳一つせずに居てくれています。母は吸引機ですが常時装着の重症な患者さんも多く、電源が必要な方はそれはたくさんいらっしゃることと思います、一日も早い復旧を願うばかりです。

またガソリン不足から介護サービスに滞りが出てきています。お風呂サービスも、巡回ヘルパーさんもガソリンがなくて車が使えず延期や遅れ、中には自転車や徒歩で時間をかけて回ってきてくれているヘルパーさんや看護婦さんがいます。

被災地へのタンクローリ300台分のガソリン配送が始まりました。

自家発電にしてもガソリンが必要ですから、何より燃料を一番必要としている被災地が最優先だと思うのですが、ここ数日、近所の幹線沿道は給油を待つ車の行列で渋滞しています。

テレビでは公共機関の電車やバス利用を言ってはいますがそれを公の機関が推奨・奨励することまたは自転車に切り替えるなど声かけを行ってもよいと思うのですが個々人の判断に任せており実施はされてはいません。

緊急時などのためにガソリンを確保することも大切ですが、供給が再開し安定するまでの間だけでも「使わない工夫」もあってもいいと思うのですがみなさんはどのようにお考えでしょうか。

電気代は昨年の同月と比べればどれだけ節約できたか目に見えてわかります。しかし今回のように自分が節約した分がどれだけの人のお役にたてたのか具体的にわかるような策(例えば1回の給油節約で被災地一週間分の体育館暖房費に変わりますなどが表示されるなど。)が今の私たちには必要なのかもしれません。

これは私が帰宅難民となり避難所で一晩過ごした経験からで、地震当日の夜は寒かったですから、風をよけて温かく安心して眠れる場所と暖かい毛布、食糧・水(余震が続いていたので不安もありましたが)それらがどんなに有難かったことか!

そして今被災地では暖房と温かい食べ物を必要としているとのこと、場所は違えど同じ大きな地震を共に経験したのですから被災地の人の気持ちもきっとわかるはずです。

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日本での電気は、1882年(明治15年)に東京・銀座に灯された日本初の電灯(アーク灯)に始まり、京都では1914年(大正3年)新潟では1928年(昭和3年)すでに電気の生活だったとのこと、義父の住んでいた宇都宮では1941年(昭和16年)頃にそれまでのランプの生活から電灯の生活に切り替わり普及していったそうです。

ふとテレビの時代劇を観ると蝋燭、または油に火を灯したり行燈などが目に入りそれだけの明りでも十分だったということがわかります。でもその分火事も多かったのでそのために火消しも多くあったとか。

日本画家の上村松篁の画集の文中とても印象に残る文章があった事を思い出しましたのでご紹介します。

大正3年の夏、京都御所の近く、今の間之町竹屋町へ転居、変わったことの第一はランプの生活から電灯生活に切り替わったことである。夜遅くまで絵を描くことの多い母松園にとって、それは文字通り手元を照らす光明であった。以来、母の絵が明るくなったように思われた。(上村松篁の画業より)

電気の歴史がそう古くないことを知り義父と話をしていましたら、義父が幼少の頃はランプの生活で、黒いすすが溜まったらランプ掃除は子供の仕事だったこと、木の電柱が建てられ裸電球(電気)が通ったのは確か小学校2年生の頃だったことなどを話してくれました。

それまでは月明かりで勉強していたそうです。

わたしたちも今回の停電で窓の外を見ているうちに次第に目が慣れてきて案外暗闇でも物を見ることができることを知りました。

停電中、子供たちが懐中電灯で勉強をしていたので、こんなにたいへんなら次からは明るいうちに済ませておこうと言っていました。

節約することによってみなで電気を分け合っている、節約したその分が被災地の人にも役立っていると思うと必要なだけまたは気候が暖かくなるまで続けてほしいと切に思います。子供には、自分のことしか考えられない人ではなく願わくばみなの事や先々の事も考えられる人間になってほしいと願います。

それにしても計画停電で学んだことは、停電が終了し明りが燈ったときのその安堵感電気があることの有難さ大切さではないでしょうか。

被災地の人々の事を想うともっと何かできることがあるのではと考える日々ですが、今できることは被災地にできるだけたくさんの物資と燃料を間接的にでも届けることが優先かと思います。まだ続く計画停電に際しては更なる工夫をこらして過ごしていこうと思っています。

我が家の電気代は春はだいたい6000円ほどですが、暖房使用の多かった1月16000円、先月12000円、今月は果たしてどの位でしょうか、またご報告することにいたします。sol(3月20日)

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▲停電の中で大活躍の「充電たまご」

携帯電話などの充電器、懐中電灯、ラジオそしてサイレンが備えられ手回し充電で使えます。16年前の阪神淡路大震災後に購入し今に役立っています。

東北関東大震災

この度の東北関東大震災により被災されました方々に、心よりお見舞い申し上げます。

特に被害の大きかった東北地方の方々、被災地の惨状は本当に目を覆いたくなりますが、 現在も救助を待っている方が大勢いらっしゃるとのこと一刻も早く救出されることを祈るばかりです。

地震発生時メールやお電話のご連絡をくださった方々ご心配いただきありがとうございました。

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通信手段としては通常でしたらば携帯電話が主ですが、今回は発信できず通じず、メール送信できず、i-modeも利用できず。地震発生から3日経った今日もメールは可能ですが電話利用できない時間帯が多いです。またあとで聞いたところによりますとソフトバンクやスマートフォンは通信状態はよかったようです。

171伝言ダイヤルに操作しようにも電池残量のことが気になりできませんでした。今の若い人たちなら早打ちで処理できるのでしょうけれどもわたしの技量では不可能です。

たまに送信できても届いていないのか返信来ず、あとで確認しましたら大幅な時間差で届くというような状況だったようです。通信で使えないのに電池ばかりが消耗していくことにとても焦りとストレスを覚え、自分は無事なんだからいっそ電源切ってしまおうかと何度も思いましたが何か連絡が入った時のためにドコモショップを見かけては充電しなんとかつなぎました。

要するに携帯自体の役割を果たしていなかったわけですが、習慣とは恐ろしいもので持っている安心感と時計と懐中電灯として役割だけは果たしてくれました。

文明の利器に頼りすぎていたわたしたちですが、今回のことで災害時では公衆電話が一番確実ということを再認識(思い出した)したのでは私だけでしょうか。

しかし街中で、出番がなくめっきり少なくなってしまった公衆電話はなかなか見当たらずようやく見つけても長蛇の列。とにもかくにも地震翌日3月12日(土)朝にようやく皆の安否が確認でき安心した次第です。

神奈川県川崎市在住の島田正治・和子はガス止めと停電で電話不通になっていましたが翌朝には通じたようです。姉家族もみな無事です。

千葉県松戸市在住の伯母のところが揺れが大きかったのか、食器棚中が割れて被害、落下物で後片付けも大変だったようです。

埼玉県さいたま市の自宅オフィスは大きな被害なし、佐々木一族も都内に住む義弟夫婦含め現在のところ皆無事でおりますのでどうかご安心ください。

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わたしは中目黒(ほとんど渋谷に近い場所)で地震に遭い、船の上にいるような大きな長い揺れを経験しました。

両親がメキシコ・チャパラ在住だったころやはり長周期振動の地震に遭遇した際「プールの水がたっぽたっぽと大きく揺れ左右に溢れ出ていた」と言っていたのを思い出し「ああこんな揺れのことか」という事と、何本もの黒い電線が大縄跳びのようにグラングランと揺れていたことが地震の最初の印象です。

それから、ふと我に返り携帯電話の時計をみると14時46分、子供たちは学校で大丈夫だったかな自宅は大丈夫だったかな、しかし直下型でないから食器などは倒れていない大丈夫だな、なんて事を考えていました。 直後もうすでに携帯電話は不通となっていました。

だいぶ以前に偶然渋谷で大きな音量で携帯が鳴り「緊急地震警報です」と連絡が入り今から地震災害時の訓練がありますのでこの地域に居る人は参加してくださいということで行ってみました。

場所も今回と同じ渋谷だったことでそのときの記憶が鮮明に思い出されそのとき習ったマニュアルが今回の災害に役立てることができました。やはり災害を想定した訓練は必要ということですね。

?家族の安否をまず確認し

?そして自分の安全も確保(帰宅不可能なときには無理に帰宅は考えないで避難所で待機)

?都内からの避難経路を確認、途中コンビニや公官庁などではトイレや飲料を提供しているので落下物に注意し自力で帰宅。

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地震が起きた14時46分は子供たちが確実に学校に居るだろうという時間帯だったので先生方は対応で大変だったことでしょうけれど親にとってはそれは不幸中の「大きな幸い(安心)」と思いました。

娘は校庭に亀裂が入ったのを見てこれは大変だと思ったそうです。

JR全線止まり歩いて帰ろうかとも思いましたが確か避難訓練は夏場でしたから、今回の寒さは想定外で寒くて徒歩で帰ろうという気にはなれず、一刻も早く暖をとりたいと思いが先にたちました。

もう日暮れで余震もあり幸い避難所で受け入れてくれたので毛布を借り横になって寝て過ごし翌朝運転再開している東京メトロ南北線で帰宅しました。わたしはそんな状況でしたが、夫は地震当日の夜中に動き始めた東京メトロ南北線で最寄駅から2時間近く真っ暗な農道の中を歩き続けて家族のために先に帰宅してくれていました。夜中2時の帰宅だったそうです(本当にありがとう!)。

避難所では大学生のお嬢さんと知り合い、若い世代の考えなどお聞きしたり話しながら一晩不安感なく過ごすことができました(本当にありがとう!)。

阪神淡路大震災を経験された方でしたら当然のことと思いますが

小銭を含めた現金、食糧、水、トイレ、防寒(避難所で配られた「EMARGENCY BLANKET」ビニルとアルミ箔を合わせたような素材が保温に役立ちとても温かかったです=さすがサバイバルの国アメリカ製です)そして携帯の充電器これは通じなくともあったほうが安心とは思いました。

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最初の大きな揺れの後ドコモショップで充電中しなければと、ふとテレビ画面を見ましたら「仙台から中継」映像で、恐ろしいほどに静かな波が、いとも簡単に防波堤を乗り越え、家や車、人までもを津波が飲み込んでゆく光景に声も出ず涙が止まりませんでした。

その映像はヘリコプターから撮影しているのでしょうけれど、画面の目の前で、今まで逃げて走っていた人が、今まで道路を走っていた白い車が、大型トラックを停めて荷台で手を振って避難を求めている人が、次から次へと容赦なく津波が飲み込んでゆく有様はそれは凄まじいものでした。

地震で火災が起きて燃えたままの家屋が、黒い濁流の中あちこちで煌々と燃えながら押し流されていきます。

自然の威力は止められないと、思いました。

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メキシコの友人たちからも「TSUNAMI」大丈夫かと問合せが殺到し、辞書ひき引き返信メールを打ちました。夫あてにもヨーロッパ各地から安否確認メールが入っていましたがみな共通に「TSUNAMI」を心配した内容でした。

昨日は、ライフラインが止まった時の食品買出しに半日を費やしました。人間考えることは同じだなと、ほしいなと思うもの全て棚が空っぽでした、早い者勝ちですね。一家族分となると水(一日あたり一人3リットルが目安)も食糧も結構な量になります。

「備えあれば憂いなし」とはよく言ったものですが家族で3日分ほどの備蓄食糧を買い揃えましたら不安もなくなり気持ちも落ち着いてきました。

私たちが小学生時代はまだ関東大震災を経験している人も多かったのでこの言葉がよく使われていましたが、今の子供たちにはいまひとつピンときていないようです。

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福島相馬は義母の育った土地で、いわき市や茨城大洗へは週末旅行や海水浴で行っていました。浪江には義妹さんのご家族が住んでいます(避難してご無事)。さいたま市のスーパーマーケットでは気仙沼や石巻、いわき産の海産物も多く、義母の好物くるみゆべしが売っていたので購入し製造所を見たら福島の名取工場でした。

またいつの日かあの美しい自然と海と人々に会いに行けるときがくることを願って止みません。

義父は、米と水があれば庭で炊き出しできるので一週間は生きていけると言っています。

阪神淡路大震災新潟大地震で被災されたみなさんの気持ちがよくわかりました。3月16日までに70%の確率で大きな地震が予測されるとのこと本日小学校は徒歩で通常登校、県立高校は休校、運行している路線を求めて会社員の人たちが右往左往また通勤を自転車に切り替えたりしているようです。

朝も夜も余震で先ほども何度目かの地震がありました、震度3くらいでしょうか。いつも体が揺れているような感覚です。

地震発生時それぞれの場所に離散していた家族が、一緒にいられるそれだけで安心、幸せに感じた週末でした。

東北地方太平洋沖地震、東日本大震災、そしてマグニチュード9.0と判明し「東北関東大震災」となり地震、津波、原子力発電所の爆発事故、救助。そして今後もまだ地震が続く様子何が起こるかわかりませんが無事であればまたこちらのブログにてお知らせ申し上げたいと思います。

多くの亡くなられた方々のご冥福をお祈りしつつ、命あることに心から感謝して。

2011年3月13日、日曜日

佐々木てるひ

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▲アメリカ製のエマ―ジェンシブランケット