祖母の思い出

わたしは幼少の頃、当時隣に住んでいた母方の祖父母に面倒を看てもらい育ちました。特に祖母・西きく が愛情を込めて育ててくれたように思います。

祖母は明治34年(1901年)3月生まれ。フリーダカーロが1907年生まれで生誕100周年記念展覧会を行ったところですから、生きていれば生誕110年にもなろうという位いでしょうか。

父は駆け出しの画家、母は中学校教員をしてフルタイムで働いていたので、父は家に居て仕事をしていたようですが、ミルクからオムツ洗いまで細々した育児全般はそのほとんどを祖母がやってくれていたようです。祖母に抱かれた写真が残っているせいか、ちょっと太っていた祖母のふっくらとした温かいぬくもりを覚えています。

自分の子供(母の兄姉弟)を6人も育て上げた祖母は育児の大先輩でもあり「子供のウンチが出ないときにはリンゴジュース」「お布団干し過ぎる(熱すぎる)と赤ちゃんの汗もが増えるから気をつけなさい」「三つ子の魂百までもだねぇ」など口癖のように言っていましたね。

宮城県(自分の郷里)まで湯治しに布団身の回り品持参で長期滞在で行ってしまうような大の温泉好きでした。

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そんな祖母は霊感が強い人で、よく親類縁者にまつわるそういった話をして私に聞かせてくれました。

話の内容は、祖母が実体験を話すので特別怖いわけでもなく、ただその登場人物が、靴でなく下駄を履いていたり戦時中の軍服だったりするので自分なりに想像しながら話を聞くことが私にとっては興味がありました。

ずいぶん後になって母と伯母にその話をしたらば、そのほとんどを彼女たちは知らず、もしかして私だけが知っている秘密!!??と思いましたが、ま、私には霊感はないようだから大丈夫かなと思っていました。

ところが10年前、祖母が脳溢血で倒れる直前、なんだか胸騒ぎがして、祖母に会いに行きました。祖母はなんだか話し方がいつもと違って呂律が回っていないようで、メキシコに住んで居る母が来週戻ってくると言う。カレンダーをよく見ると母が帰国するのは来月12月14日(土)ちゃんと丸印がつけてありました。

私「和子お母さんは来月12月14日帰国だよ来週は帰ってこないよ!」

と耳が遠くなった耳元で言ってあげました。そしたら理解したようでしたがしきりと外を眺めながら

祖母「そうかい。今日はもうだれも来(き)ないね」

私 「誰か来る予定あるの?」

祖母「いいや、ないよ」

祖母「誰も来(き)ないね」

祖母「おお寒い寒い寒いっ、じゃあ昼寝するよ」

私 「ゆっくり休んでね。誰かきたらおばあちゃんに教えてあげるね」

そして当時6か月になる娘と一緒の布団で昼寝をして午後を過ごしました。これが祖母とのはっきりした最期のやりとりで、やがて娘だけが昼寝から目覚め、私たち家族は寝ている祖母一人を残して祖母宅を後にしました。

夜、祖母を看ている伯父に電話し「今日おばあちゃんの様子が変だったけれど大丈夫ですか?」と聞くといつもと変わりないと言う。

翌日、やはり姉に「おばあちゃんの様子が変なので会ってきて」と頼んで行ってもらったけれど、その翌日、祖母は救急車で運ばれ意識が戻らないまま3ヵ月後平成11年1月19日に97歳で帰らぬ人となりました。

今思えば、呂律が回っていないのは脳に疾患が出ていた証拠ですぐに救急車を呼ぶとか体を温めてあげるとか何か手当てはできたのに、胸騒ぎと不思議なことを話す祖母の異変に気付いてあげればよかった。その時の祖母の訴えをわかってあげたかった。

祖母は母がメキシコから帰国するまでは何とか待っていようと思っていたのか、わたしの一言でがっくりきてしまったのかもと反省しています。はいはいと聞いてあげて、否定的なことは言わない方がよかったのです。今だったら「おかしいな」と即異変に気付き、そしてその場限りでも気遣いのある言葉が言えたのにと後悔しきりです。

この時、わたしは祖母に呼び寄せられたことを身を持って実感し、以来、自分の直感を信じて行動するようになりました。日本での日常もそしてメキシコに居ても同様です。メキシコでも不思議なこと、ありました。こちらのお話はいずれまた。

わたしには祖母のような霊感はないようですが、愚痴は多かったけれどそれ以外よけいなことは一切言わない祖母が残してくれた唯一の「教え」のような気がして大切にしています。

今日は祖母が信仰していたとげぬき地蔵尊の大祭の日、そして夫の誕生日です。sol(4月24日)