ハルとナツ、ブラジル移民の話

先日NHK放送80周年記念スペシャル番組「ハルとナツ・届かなかった手紙」が再放送されました。前回はなぜか観ることができなかったのですが今回は子供たちと一緒に観る機会をもつことができました。

というのも、ブラジル移民がわが家にとって深い関わりがあることを子供たちにも知っておいてほしかったからです。

ブラジル・サンパウロに転勤になるというセニョーラAngelesに、祖父の妹一家が移民で行っているので探してほしいとお願いしていたところ

古い住所を頼りに探し出してくれたのが、18年前。そのころメキシコ観光に勤務していた関係でツ二ブラトラベルというブラジル系旅行会社とのつながりもあり、そんなときに偶然知人のMiyokoさんにも移民で行っているお姉さんがいらしてそのご一家がツ二ブラトラベルイグアス駐在だということが判り、はるか遠いブラジルまで、わたしと姉、Miyokoさんの3人でそれぞれの親戚に会いにブラジル旅行することになりました。

90歳を過ぎた祖父も無理だとわかっていながらお医者様を伴ってでも会いに行きたいとダダをこねていましたが、わたくしと姉で会いに行くことにしました。

1989年夏休みのことです。

成田/ロサンゼルス/サンパウロと長い長いフライトの末、未だ見ぬ親戚たちが手書きのネームプレートを掲げてサンパウロ空港で出迎えてくれました。不思議なもので出迎えている日系人はたくさんいる中で親戚の顔は一目でわかりました。一族の待っている家で愛子おばあさんに会いましたがこれまた祖父にそっくりだったので再会のようで、また皆さん日本の西一族に顔立ちが似ていて血のつながりを感じました。

何を話しても涙涙で、涙なしでは語れない本当に大変なご苦労をされたのがひしひしと伝わってきました。日本の緑茶を、みなで少しずついただきましたが味も香りも色も薄れ、それでも日本のお茶だと懐かしんで飲んでいらっしゃるみなさんを思うと涙が止まりませんでした。

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昭和5年(1930年)ごろ、わたくしの母方の祖父・西新之助、その妹・多田愛子さんは婚家の北海道の一家とともにブラジル・サンパウロ州へ移民、移民船は神戸港から出発し、そのとき見送りに行った長女の共枝伯母さんは小学校入るかはいらないかの頃だったけれども幼いながらに船内見学し紙テープで見送ったということを覚えていると、わたくしに話してくれたことがあります。

移民船はサントス港に到着、消毒後、列車にて植民地へ移動。大歓迎されるのかと思っていたら、まるで捕虜を乗せた護送車のようだったと、サントス港でキン子伯母さんがレールの跡を見ながら説明してくれました。また、種は持ち込み禁止だったので帽子の内側に縫い付けて持っていった移民もいたということでした。

ブラジル旅行中、アントニオ伯父さんが運転する車でサントス港までドライブに行きました。サントスサッカー場を通り過ぎ、港のカフェではそれはそれは濃くて甘いカフェ(ブラジルコーヒー)を何杯も飲んだのを覚えています。サントスを見ずしてブラジル移民のことは語れないのだと思いました。帰路にはシュラスコをお腹いっぱい食べてサンパウロ市に戻りました。車の中でも思い出話は尽きませんでした。。。

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それから何年かして、帰りたくても帰れないと言っていた移民の親戚達が「出稼ぎ」で故郷へ帰国の夢を果たし、会いに来てくれたときには祖父は帰らぬ人となっていました。ブラジルと日本の伯母達が集まりみなでお墓参りに行ったのがついこの間のことのようです。

でも、祖国日本を一度でも見たから、やはり「ブラジルのほうがいい」といってみなブラジルに帰っていきました。今では年賀状を出すだけになってしまいましたが手紙は届いているのでしょうか。日本語を忘れてしまったから代筆してもらっていると言って手紙をくれていた萩原キン子・高倉スエ伯母さん、そしてファミリーが今でも元気で暮らしていることを祈ります。ドラマでは妹ナツが姉ハルを訪ねてブラジルで暮らすことになりますが、それほどブラジルは、家族や土地を大事に暮らしていて人間味があって良い所なのでしょうね。これはブラジルに行かれたことがある方でしたらお分かりになると思います。

日本が戦争で負けたということを認められないダメオヤジ的な高倉家の父には憤りを感じましたが、最後まで大地と家族を大事に思ってきた父の違う角度からの捉え方をしている「このドラマすごいな」と思い、考えさせられました。人には色々な面(長所短所)があるけれど、それよりも最終的には自分の生き方を通したほうが、より人間らしく生きた甲斐があるのでは―と思ったのです。

大地を大事にしてきた人が一番幸せなのかもしれません。貧しくても、ある程度の身の丈にあった暮らしの中で家族とともに生きていくというのは、非常に大切なことだと考えていますと橋田寿賀子さんがおっしゃっています、心にしみる言葉だなと思いました。

先日のことですが、姉がわたしの誕生日に何かほしい物ない?とメールしてきました。ところが、考えても考えても欲しい物が見当たらないのです。年とともに物欲もなくなってたのでしょうか。物よりも、家族が毎日健康で過ごせること、そして何よりも家族が一緒にいられて過ごす時間と絆が大事だと思う、今日このごろなのです。夫の両親も、遠く離れてメキシコで暮らしている両親も勿論、大事です。

(よくよく考えた末に、お財布が古くなっていたので一回り大きなお財布をプレゼントしてもらいました)

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今回ドラマを観ていて、ほとんど実話に基づいていて、またわが家の親戚にも「高倉」という姓の伯母もいましたから他人事には思えませんでした。多田一家はコーヒー農園(ファゼンダ)の後、クリーニング店を営んでいたと聞きました。でも現実には更にもっともっと大変なご苦労があったようです。

ああそうだった、こんなこともあったという話をブラジルの伯母達から聞きましたし、祖父が生前愛子おばあさんからの色褪せた手紙をみせてくれたこと等、いろいろなことが走馬灯のように思い出されました。15年前の旅行の記憶ですら曖昧なのですから、ましてや約70年前遠い親戚がブラジル移民で行っていたことを、風化させぬよう、ブラジル旅行の写真をみせながら子供たちに移民の話をしていかなければと思っているところです。

sol(4月6日)

【ブラジル移民メモ】

日本人のブラジル移民は、1908年(明治41年)の「笠戸丸」から始まった。サンパウロのコーヒー農園が労働力不足に悩んでいたこと、1907年の協定により日本人のアメリカ移民が難しくなったことが相まって開始された。その数は1908年から戦前が19万人、戦後は5万人。ピークは1925年〜36年の昭和初期であり、ドラマ内の家族の移住も1934年(昭和9年)の設定にしている。

 その9割が、コーヒー農園の契約労働者で、低賃金であった。ほとんどは、金をため故郷に錦を飾りたいという出稼ぎ移民で、それがかなわず永住が定着するのは戦後だった。西日本出身者が多く、12歳以上を最低3人含む家族移民が基本だったので、女性も多かった。また、サンパウロ州の中部・北部のコーヒー農園での数年を経て、1920年代後半からは、北西部やパラナ州などへ移動、綿作などの独立農となるケースが多かった。サンパウロ州最奥地に、幾百もの日系集団地を築いた。1937年ブラジル政府により、日本語による学校教育、日本語新聞の発行、日本語の集会が禁じられ、日米開戦後、規制はさらに強まった。戦後、日本の勝敗をめぐって、いわゆる「勝ち組」「負け組」という日本人同士の対立があった。

 現在、ブラジルの日系人は140万人ともいわれるが、8割以上が都市に住み、ほとんどが中産階級となっている。(NHK公式サイトより)

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