夏休みの思い出―1970年代

夏休みの思い出4

父がメキシコに住み始める1986年までの夏休みは、西伊豆・松崎温泉の民宿滞在か、京都に行っていました。

【京都の思い出】

京都・二条の家は父の実家です。

当時は、家業である紋章上絵師の祖父と後継ぎの三男の叔父家族が、また隣には長男の伯父家族が住んでいました。

京都では、7月には祇園祭、8月はお盆休みや大文字焼き(五山の送り火)があり、わたしたち一家は、母が中学校教員でしたので「登校日」が終わってからの、京都の家族の忙しさが一段落する地蔵盆の頃に行くことが多かったように思います。

地蔵盆(じぞうぼん)は8月23日、24日で、地蔵菩薩の縁日(毎月24日)であり、なおかつお盆の期間中でもある旧暦7月24日に向け、その前日の宵縁日を中心とした3日間の期間を指し、またそのうちの日を選んで行われる地蔵菩薩の祭のことをいう。地蔵盆は一般には寺院に祀られている地蔵菩薩を対象とした祭りではなく、道祖神信仰と結びついた路傍あるいは街角(辻)の地蔵が対象となっている。(wikipediaより抜粋)

同年代の従兄妹たちがいたので当番のお宅に一緒に連れて行ってもらうのですが、決まって「東京から来たんや、従姉妹やで」と紹介してもらいます。

お供え物をして「百万遍大数珠繰り」を行うということを後に知りましたが、私が参加した地蔵盆では一度もやったことなかったです(記憶にないだけかも)ただただ東京にはない珍しいお菓子が食べられる嬉しさや初めて会う同年代の子供たちと共通の話題をさがしたりちょっぴり緊張しながら過ごす子供だけの世界でした。

恐らく町内の子供の人数分お菓子の袋が用意されているのでわたしたち姉妹の分をいただくのが子供心に申し訳ない気がしていました。が、叔父や伯父たちが「小川の島田です、正治さんとこの子供や。」というと不思議と自然にお菓子をもらうことができました。

父は4人兄弟の中ではかなりのいたずらっ子だったようですが学級委員(級長)をしたり後には堀川高校を卒業、京都教育大学から学芸大学に編入したことを、町内の方々はご存じのようで「ああ正治はんとこね」と近所のおばさん達が頷いてお菓子をくれたものですが、これは今から思えば「京都から東京に出て行ってしまった息子さん」というニュアンスの頷きだったようです。

この後1986年にメキシコへ渡ってからは、ようやく海外在住の「画家」としての「正治はんとこね」言われるようになった気がします。

そして私も京都へは家族旅行としてではなく一人旅として訪れるようになり、大学時代は毎春休み訪れていました(叔母には本当にお世話になりました)が1986年メキシコ観光に就職してからの夏休みは仕事を兼ねてほとんどメキシコ旅行となっていきました。

sol(7月20日)

夏休みの思い出―1976年

夏休みの思い出3

【サイクリングで奈良古墳巡り】

母が世田谷区で教員をしていたので修学旅行で訪れた奈良飛鳥のサイクリングがとても楽しかったので、翌年わたしたち姉妹を連れて行ってくれました。

京都の二条の家から奈良へと向かいました。

サイクリングのルートマップのようなものがあり、それに従い周ります。お天気もよく炎天下で水分補給で休憩しながらだったとは思いますがよくぞ母一人で2人を率いてくれたと、今になって思います。

折りしも1972年に発見された高松塚古墳の極彩色の壁画をはじめ奈良古墳巡りがブームになった頃でした。みなさんも行かれた方は多いのではないかと思います。

6世紀末から7世紀末までの約100年間、日本の中心地だった飛鳥。その後、日本初の本格的な都として計画され機能した藤原京が造られました。日本の古代史の舞台となった地です。(歩くなら、より抜粋)

明日香村の飛鳥寺、石舞台古墳、大和三山を訪れそして樫原神宮にて昼食をとったと母が教えてくれましたが、わたしが覚えているのは、暑くて汗だくだったことと石舞台古墳の大きな石と地面の照り返しが熱くて熱くて長時間いられないなと思ったことです。

そのサイクリングして訪れたルートを自分のイラストと写真で模造紙に描き社会科の宿題として提出しました。わたしの記憶は、描くことによって維持されているようです(笑)。

そしてこれを最後に以降は家族でメキシコ旅行に行くようになりました。sol(7月18日)

夏休みの思い出―1960年代、幼少の頃

夏休みの思い出2

夏の旅行といえば、京都と、そして「兵庫県の竹野」でした。

【父の心の故郷・竹野】

竹野は兵庫県の日本海側の町で、父の母である、早くに亡くなった祖母・千代の故郷です。父たち兄弟は夏になるとここへ遊びに行ったそうで当時は「おはなはん」と呼ぶ叔母と父の従姉弟たちが暮らしていました。

泳いだのは竹野や切浜の海岸で日本海は深い色(深そう)で波も荒かったような。そしてやたら大きな海藻や藻、そしてフナ虫がいて、ビーチサンダルで海辺を歩くと波に足をさらわれそうになったりしてちょっぴり怖いけれど、長期滞在型でしたので来る日も来る日も海で過ごした記憶があります。

ここは同じ夏休みでも暑かった思い出はなく、古くて黒い漆喰の床や階段がお化け屋敷のようでゾクッときたので、子供心に涼しく感じたのかもしれません。

また蚊帳釣りで寝るので夜もどのようにおトイレを済ませたのか、こちらも怖くて覚えていません。

ここでは竹野の「おはなはん」叔母が別れ際に金平糖をくれたのが印象深く、またその甘くてしっとり消えてゆく味が実に美味しかったことを覚えています。

今でも金平糖を見かけると買って食べたくなりますし、お茶席で出ますと素直に「美味しい!」と感じます。小さい頃の味覚や思い出は一生忘れられないものになっているのだなとしみじみ思います。sol(7月19日)

夏休みの思い出ー1970年

もうすぐ夏休み、梅雨明け宣言が出され蝉の鳴き声が響いています。どこへ行くのか待ち遠しかった子供時代でした。

夏休みの思い出といえば「大阪」「兵庫」「京都」「奈良」へ行った家族旅行の思い出です。

【1970年の大阪万博】

父の叔母が通天閣近くでおこし屋さん(粟おこしです)を営んでいたので家族で泊めていただき大阪万博へ行ってきました。

このときの記憶で鮮明に残っているのがミドリ館。後に夏休みの絵に描きました、それで思い出したのですが、下から見上げただけのミドリ館だったのに絵に描いたものは上空からの眺めのパノラマ仕様でした。

そうなんです思い出に買ってきた絵葉書を見て描いたんですね。

そのミドリ館の色がとても色鮮やかだったので描く時にはクレヨンでグラデーションを出すのに苦労しました。エアドームも覚えています、そしてもちろん聳えていた太陽の塔と水前寺清子の「世界の国からこんにちは」のテーマソング。

今テレビコマーシャルで、ホンダの「ドラえもんシリーズ」ではタイムマシンで1964年東京オリンピックに遡っていますが、まさにあの時代の光景です。

この辺りの事は、同世代の方々は体に染み込んでいるのではないかと思われるほど万国共通の話題で会話が弾みます。

わたしもタイムマシンでもう一度大阪万博に行ってみたいなぁと本気で思いました。「ナミヤ雑貨店の奇蹟(東野圭吾)」にも色々な年代へ遡る時代背景が描かれており懐かしく読破したところです。

夏休みを終えると「万博行った?」が合言葉で、入場者数は史上最多の6421万人(上海万博7278万人には記録を塗り替えられましたが)会期終了の9月までにはほとんどのご家族が行ったようでした。

両親に手を引かれて出かけた暑い暑い夏の思い出です。

sol(7月17日)

祇園祭と京都の夏

7月に入ると、京都は祇園祭の雰囲気を楽しもうという観光客が増える頃を迎えます。人が増えて賑やかになってきたよ、と京都の叔父が言っていました。

テレビでも、しきりと京の町中を映し、鉾の大車輪(私の背丈ほどある)を何人もの大人が運んでいました。

はて、わたしは小さい頃、祇園祭に行ったことがあるか?と父に尋ねましたら一度もなかったとのこと。

泊まるところは親戚の家があっても、伯父たちをはじめ皆が祇園祭の準備で多忙を極め、また我が家は母が教員で、夏休み前ですから私たちもあえて学校を休んで行くこともなく、祇園祭に行く機会を逃していました。

町中の人も多く大変な頃であるからまたいつかいらっしゃいと亡くなった祖父にも言われていましたが残念なことに未だに行っていません。

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祇園祭とは平安時代前期の869(貞観11)年、京で疫病が流行した際、広大な庭園だった神泉苑(中京区、本家近くです)に、当時の国の数にちなんで66本の鉾を立て、祇園の神(スサノオノミコトら)を迎えて災厄が取り除かれるよう祈ったことが始まりとされる。 応仁の乱(1467−77年)で祭りは途絶えたが、1500(明応9)年に町衆の手で再興された。以後、中国やペルシャ、ベルギーなどからもたらされたタペストリーなどを各山鉾に飾るようになった。これらの懸装品の豪華さゆえに、山鉾は「動く美術館」とも呼ばれる。江戸時代にも火災に見舞われたが、町衆の力によって祭りの伝統は現代まで守られている。現在、巡行に参加している鉾は9基、山は23基だ。(京都新聞より)

本家のある小川の家は岩戸山ですが、祖父が、お囃子で目立つからと先頭を行く長刀鉾に父を入れたそうです。父は長刀鉾で笛を吹いていました。

岩戸山京都市下京区新町通仏光寺下ル岩戸山町

 『古事記』『日本書紀』に記される「国生み」と「天の岩戸」の神話を故事にもつ、曳き山。「天の岩戸」は、素戔鳴尊の乱暴に天照大神が岩戸に隠れられたため、天地は常闇となり、八百万神は安の河原に集まって対策を練り、常世の国の尾鳴鳥を鳴かせ、鏡を鋳造し、500個の勾玉をつくり、天香山の榊を立て、天鈿女命が舞った伝承である。屋形内に、伊弉諾尊、天照大神、手力男命の3体の人形が飾られる。

鉾と山の違いは、車(大車輪)があり転がして曳くものが「鉾」で、車はなく担ぐものが「山」。山には「かき山」と「曳き山」があり、中でも「あと車」といって後に車が取り付けられて曳くようになった「曳き山」には「岩戸山」「北観音山」「南観音山」の3つがあるそうです。私も長年、岩戸山は車があるので鉾だと思っていましたが今回父から話を聞き初めて知った次第です。

シンボルとして「山」には松を立てていますが、長刀鉾には長刀、月鉾は月、船鉾は船の形をしていて見ている側も一目で何鉾かわかり楽しむことができます。

昔は17日の先の祭り(本祭り)と24日の後の祭りと巡行道順違えて分けていたそうですが現在は16日を宵山とし17日に盛大に一斉に行われるようになったとのことです。

その当時岩戸山は後の祭りの出番だったので賑やかさが少なくてちょっぴり寂しかったよと父が言っていました。

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数年前に京都の従兄の子がメキシコ留学でグアダラハラに滞在していました。チャパラの家へもよく訪れ留学生活をエンジョイしていたようです。

1年の留学期間を終える頃になると留学生のほとんどはメキシコ国内旅行をしたり近隣諸国を訪ねたりするものですが彼は「7月は祇園祭のお囃子があるから」と1年の留学期間きっかりを終えて日本に帰って行きました。

その話を聞いても京都の人たちにとって祇園祭がどんなに大切なものかよくわかります。リオのカーニバル然り、祭り魂とはこのことかと思いました。

♪コンチキチン♪鐘の音やお囃子の笛太鼓に懐かしさを感じます。

今年も間もなく祇園祭は宵山を迎えます。今回のカレンダーは16日(土)17日(日)が週末ですから一段と観光客が多く賑やかさを増すことでしょう。暑い暑い京都の夏ですが無病息災を願い、また親戚たちが無事に祇園祭を終えられることを願って。sol(7月14日)

京都のお爺ちゃん

先日仕事で久しぶりに京都へ行き、気になっていたご先祖さまのお墓参りを済ませちょっとほっとしているところです。

伯父伯母、叔父伯母たち(全部で6名)とも近況や子供の成長ぶりなど色々な話をする機会を持つことができとても充実した滞在でした。

中でも長兄の大伯父からは島田家先祖代々のことなどを初めて聞き学ぶことが多かったです。そんな大伯父の話し方が亡くなった祖父とそっくりだったものですから、今日は、祖父のことを懐かしく思い出して書いてみようと思います。

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中学校の卒業式を終えた春休みに初めて京都へ一人旅に出してもらいました。

新横浜駅から新幹線ひかり号に乗車したときには東京からの乗客でもうすでに満席で、見送ってくれた母が車掌さんに「女の子一人旅で京都までなんです、宜しくお願いします」と頼んでくれたのですが途中駅ということもあり乗車時間も短くあっという間に出発の時刻、

京都旅行は家族で何度も行っているし、新幹線も慣れているから大丈夫!と自分に言い聞かせたもののなんだか心細くなって涙ぐんでしまいました。

名古屋到着前にはぽちぽち空席ができ座ることができほっとしたのも束の間、すぐに京都に到着「ホーム一番後ろ車両に乗車」と母から連絡を受けた叔母が京都駅ホームに迎えに出てくれていて今度は安堵感から嬉し涙がぽろぽろと・・・全く女の子というのは涙もろくていけませんね。

京都では当時大学生だった従兄弟連中の兄的存在のたかちゃんが清水寺など京都観光案内してくれたり、叔母が従姉妹たちと太秦映画村へ連れて行ってくれたり、そして最後は祖父と伯母と3人で二条城の桜を見に行きました。このときの桜はそれは見事だったと、今でも伯母が懐かしそうに言っています。

▼二条の家を出て角を曲がると二条城東南隅櫓が見えます。

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京都の祖父・島田眞二郎は明治33年(1900年)3月24日生まれ、祖母・千代が亡き後男手ひとつで男の子4人を育て上げたのでした。

男兄弟4人だった父たちは悪戯すると祖父の紋章上絵の仕事で使っている「物差し」が飛んできてそれがまたよく命中するんだ、と父がよく言っていました。

あるお正月、わたしたち従兄姉妹が炬燵で花札遊びに興じていたところ祖父が部屋に入ってきて「花札は家でやるもんとちがうゥ」といきなり取上げられてびっくりしたことがあります。いつもはニコニコ穏やかな祖父なのにこのように叱る時には厳しく言われたものです。

また、わたしはよく国内旅行先や海外から手紙を送っていたのですが、長崎からの葉書だったでしょうか―

「いつもお便りありがとうさん。けれどこの葉書は大き過ぎて定形外らしいにゃ、受け取った方は嬉しいけれど送り主は自分の知らんとこで迷惑かかっとるときもある。気いつけやぁ。」

と、柔らかな京都弁で諭すように話してくれました。

このとき初めて、葉書は定形外になると50円→70円(当時)となり、また料金不足になると受取り手が支払うことになるということを学びました。

わたしたち孫にも厳しさを忘れない祖父でした。

祖父はおしゃれでいわゆる粋な男性だったようでカメラ帽子のコレクションが趣味でした。父たちが幼少の頃70〜50年前の昔の写真がビロードの表紙のアルバムにきちんと整理され残されています。

父・島田正治もそんな祖父の影響か帽子選びにはこだわりを持っていて、外出には帽子は必ず被って行きます。

隠居後は裏庭で育てた瓢箪に色づけして孫達にプレゼントしてくれたり広告を切り取って貼り付けたり、長年の仕事の習慣から引退後も机に向かわずにはいられなかったそうで、訪れるたびにだんだん小さくなってゆくそんな祖父の背中は今でも忘れられません。

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往路は一人旅でしたが帰りに祖父を連れて帰るという役割があったことを思い出しました。つづきはまた次回に。sol(3月5日)

金平糖

父の故郷は京都の小川二条ということろで泊まりで行く時には京都駅からタクシーで「小川二条下る、お願いします」と言うとそれだけで行き先はわかり京都ってすごいところだなと思ったものです。ちょっと歩いて通りの角まで出ると二条城の東南隅櫓を仰ぐことができます。

二条城一周は徒歩約30分ほどで、家業を継いでいる3番目の叔父の朝の愛犬ジョン散歩コースで、泊まりに行っているときには毎朝お供させてもらっていました。ジョンは黒光りした短い毛並みにぐりぐりした目が印象的な中型犬でわたしにとっては怖い犬でしたが散歩となると話は別でわたしに吠えるのではなく他の犬に対して吠えるのでなんとかご一緒できた次第です。

父の生家は家業の紋章上絵(着物に紋を書き入れる仕事)を継承している築100年の京町家で、ジョンはその鰻の寝床の丁度真ん中あたりの土間にいて、私が泊まっているといつもと違う人間の匂いがわかるらしく、トイレに入っている時もお風呂を頂いている時も夜でも、いつもウオーン、ワンワンワンワンと吠えられていたものです。

わたしも怖かったけれどジョンもまたよそ者の私が怖かったのでしょうね。

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そんな京都に嫁いだ父の母、祖母の島田千代(おちよはんと呼ばれていました。父が高校生の時に亡くなったそうで写真でしか見た事はありませんが)の故郷は兵庫県・竹野町日本海の切り浜で、幼少時代は海水浴を兼ねてよく家族で泊まりに行きました。父もまた幼少の頃、夏休みになると子供だけで預けられ貴重な時を過ごしたと話してくれたことがあります。

いつか冬に訪れたときには海は黒々して波は荒く夏とは違ったその姿に

これが日本海そしてこの海の先に大陸があるんだななどと子供心に思ったこと覚えています。

泊まりに行った時には、祖母の実家である増田家・花子おばさんのお宅に泊めてもらいお世話になっていました。鉄道の駅舎の前で撮った写真が今でも手元にあり、その別れ際に金平糖を渡してくれ、食感はざらっとするけれどお口の中で徐々に溶け出していつまでも甘い甘い、初めて食べたその味が今でも忘れられません。

▼おひな祭りの金平糖

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その思い出からか、金平糖が売っているとつい、買いたくなります。

花子おばさん(おはなはん)の家では、黒々と磨き上げられた木造の離れに寝泊りし、ぎぎぎーっと屋根裏を開けて入っていくところに寝床を敷いてもらいました。そこでは蚊帳が使われており蚊帳のそとを、それまで点いていた明りを頼りにやってきた虫がブンブンとかブーンと蚊が飛ぶ音が聞こえたり、また外は真っ暗で一度目が覚めたが最後、子供心に怖くて眠れなかった思い出があります。

昨年、父の従姉妹の方からその昔、祖母が京都に嫁いだあと京都で着物を仕立て竹野の実家に贈ったという着物が、母を経てわたしのところへ廻ってきまして頂戴することになりました。

わたしも成人式に始まりお茶会等で京都着物を仕立て帯を見立ててもらったりと数点持ってはおりますが、頂いたその着物は絣、羽織りは絞り染めで、それらを受け取った時、とても古いものだけれど品があり伯母や祖母の思いが伝わってくるような感じがしました。

会った事はないけれど、20代の頃にお茶会で着物を着付けてもらって出際に父が「お千代はんにそっくりや」と言ったので、後でその時の着物姿の自分の写真をしげしげと眺め「ふ〜ん、似てるのかしらん」と祖母がどんなひとだったのか想像してみたりしました。

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先日娘が「昔の道具」について調べるという社会科の宿題をしていて母方の祖母が生きていたら昔使っていた道具の話が聞けたのに、と9年前に亡くなったきくおばあちゃんにもう一度会ってお話を聞いてみたい!なんて言っていました。わたしもふと、もしお千代おばあさんに会うことができたら竹野や京都の昔の話を聞いてみたいものだなと思いました。

貴重な着物と思い出、わたしも知っている限りを娘に語り伝え、金平糖や蚊帳の思い出とともに大切にしていきたいと思っています。

sol(3月3日)おひな祭りの日に。

京都のお正月

今朝、義母とおせち料理の準備でお台所に立っていましたら、

「てるひさんのお家のお正月はどんな風に過ごしていたの?」と聞かれまして、思い返しましたら父と母がメキシコに住み始めたりで家族水入らずで迎えたお正月は正味20年ほどです。

父がメキシコに住み始めた頃だったかと思いますが、夜の11:00過ぎるのを待って国際電話をします。あの頃はまだ国際電話代は安くはなくて話す用件をメモして手っ取り早く済ませるというような時代でした。

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まだ京都の祖父が生きていた頃、何度か京都でお正月を迎えたことがあります。島田正治京都市中京区の出身です。

京都の冬は関東の寒さとは違い、底冷えのする寒さです。

大晦日のメニューは決まってすき焼きで、家内工業もあってか作るのは昔から男性の仕事なのだそうです。(着物に紋を描く仕事、紋章上絵師です)

叔父が(普段から料理もしている、とても奥さん思いの叔父です)上手に鉄鍋に脂身を回して割下を作り材料を入れていくその手馴れた姿がとても記憶に残っています。そんな名残もあり我が家(島田の家)でもすき焼きを作るのは決まって父の仕事でしたね。

夕食後凍てつくような冷たい空気の中、夜中12時に向けて八坂神社をけら参りに出かけます。八坂神社で紐の線香に火をもらって、回しながら火を絶やさないように家まで持ち帰り台所の種火とするとよい新年が迎えられるということで、とはいいつつも、とても寒いので途中、お店に入っては甘酒を頂いたり、素うどんを食べたり暖をとりながら帰宅の途につきます。お店ではそのお線香の火を絶やさないよう店の入り口あたりに置く場所を提供してくれます。

寒い寒い京都は「おこた」(足炬燵)がなければ寝られないほど。叔母が銘々のお布団に「おこた」を入れて温めておいてくれていました。

お正月は祖父を囲み厳粛な雰囲気でした。銘々の卓が用意され、朱色が美しい漆器に白味噌に丸餅のお雑煮です。関東のお雑煮と違い、あまりに上品な美味しさにカルチャーショックだったのでしょうか、なぜなのか、これ以外のお料理は覚えていないんです。

(京都では客人があるときには料亭から仕出しをとる(届けてもらう)のも一般的ですが(料亭の味を自宅で愉しめるなんてとても贅沢ですよね!)お雑煮は叔母製だったかと思います。)

叔父や従妹が勢ぞろいしたのでお年玉もたくさん頂けましたし、従妹達たちと一同に会し、はしゃぎ、それは格別楽しかった京都のお正月でした。

京都というところは1年中伝統行事があり、大晦日までもとても大事に過ごすのですね。

そう、だいぶ大きくなってからのお正月ですが、花札で遊んでいましたら祖父が「そんなもん家でするもんとちがう」とエライ剣幕で怒られたのを思い出しました。祖父はまがったことが大嫌いな厳しい人でした。。。

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先日ホームステイしたメキシコ人家族が「日本はメキシコと違って、クリスマスが少しでお正月をとても大切にするのよね」と言っていましたが本当にその通りで、日本は各家庭なりのお正月の過ごし方がそれぞれにあります。

来年そのメキシコ人ご家族が来日するのですが日本のお正月を、我が家なりのお正月で、もてなしてあげたいと思っています。

今日我が家でもそんなお正月の京都を思い出し、久しぶりにすき焼きを作って頂きました。sol(2007年1月3日)