メキシコ紀行ーケレタロ編2

ホテル アシエンダ・フ―リカHaciendaJuricaの219号室に到着し、着付けを始めているとほどなくして内線電話が鳴り、懐かしい声の主はIQさんでした。以前は埼玉在住でしたが、今はご実家のあるサルティージョで暮らしています。私たちの来墨を聞いて車で8時間かけて会いに来てくれました。

いつもは年賀状とFBメールだけのやりとりでしたが本当に懐かしくまた彼女の日本語が日本にいた時より更に上達し日本語も読めるようになっていたことに驚きました。在メキシコ日系企業で通訳官をしているとのこと、素晴らしく流暢な日本語で、私の片言のスペイン語よりも日本語を通してお互いの想いをしっかり伝えあうことができました。

その後教会での結婚式に参列し祝い、教会における結婚式のしきたりなどを教えてくれました。〆の挨拶は「LaPaz」です。

お互いの子供が生まれる前、私は彼女からスペイン語を習っていました。彼女は国際結婚で、わたしが考えていた以上に日本での悩みが多かったようで、最後は力になってあげられませんでした。わたしも子育てと嫁姑で大変な時期でしたから仕方なかったのですが、ただ何とか共に乗り越えていきたかったです。

子供が生まれてからはママ友として、そしてこれからは一女性として国境を越えた友情がこれからも続いてゆくと思います。これからもどうぞよろしくね!sol(10月16日)

メキシコ紀行ーケレタロ編

今回は、お世話になっているメキシコ人ご家族のご子息チャーリーの結婚式参列のためにメキシコを訪れました。

30年以上のお付き合いのあるメキシコですが、ここ数年結婚式ラッシュで、招待されることは多かったですが日程が合わず、今回初めての結婚式参列です。

FaceBookにて招待状が届き、参加表明、家族顔合わせや婚約の模様、あと何日で結婚式!というカウントダウン、披露宴会場のホテルのリンクやホテル予約etc.全てFBを通してのやりとりです。

結婚式が迫った10日前からは結婚式当日の天気予報や気温を気にしている様子、やはり屋外での披露宴とのこと。一緒に参列する長男は紺ジャケットにワイシャツ、スラックスと決まりましたが

わたしは何を着ようか迷った末やはりここは日本人ですからせっかく3年間勉強してきた着付けを生かして着物を着ることにして着物を準備し、スーツケースに詰めました。

メキシコ空港から手配車でメキシコ市の渋滞を1時間ほどで抜け、約3時間でケレタロQueretaroに到着、水道橋LosArcosを観ながら市内を通り郊外のホテル アシエンダフリカHaciendaJuricaへ。門をくぐり敷地内に入場、馬場を通り石畳の道をゆっくりと走り、ようやく芝生の向こうに2階建ての建物が見えてきました。まだ夕刻6時と明るかったですが、あちらこちらから音楽が流れ披露宴が始まっている様子です。

アシエンダとは、かつてのスペイン領のラティフンディオ(大土地所有)の一形態で、特にメキシコ、中米の一部、アンデス諸国で一般的にみられた伝統的な大農園を指す。アシエンダの所有者は、アセンダード(hacendado)やパトロン(patrón)と呼ばれ、いくつかのアシエンダはプランテーションや鉱山でもあり、工場でさえある。多くのアシエンダはそれらの生産的活動を含んでいる。(Wikipediaより)

18〜19世紀の面影を残し、メキシコでは現代に残る建物をホテルやリゾートとして利用している観光地も多いです。迷路のような造りで客室に至るまで迷うこともしばしば。レストランへはタコスTacosとコーヒーCafeの香りを頼りに移動します。

もちろん設備も充実していて、マッサージルームやフィットネス、プールなどもあり長男は朝に晩にプールで泳いでいました。わたしは、ゆっくりマッサージでもと思っていましたが、時間がなくて断念。旅先なのになかなかゆっくりした時間ってとれないものですね。この続きはまた!sol(10月15日)

メキシコのハーブティー

先日、メキシカンレストランのラ・カシ―タ(代官山)テ・デ・マンサニージャTe de Manzanillaを頂きました。風邪をひいていたので喉にもやさしく体も温まり、メキシコ料理と共に美味しく頂くことができました。

蔦谷書店で頂いたカモミールティーにははちみつがついてきました、しっかり(濃く)煎じたお茶にはほんのり甘くしていただくのもお勧めです。

マンサニージャはカモミールとも呼ばれ、メキシコやスペインでは食後やティータイムに飲みます。胃にもやさしく消化促進作用があり食後にもよく飲まれています。

【カモミール】

カモマイル(英: chamomile、あるいはカモミーユ、:camomille)、学名:Matricaria recutita)、キク科。

「カモミール」の語源は「大地の(χαμαί)リンゴ(μήλον)」という意味のギリシア語名カマイメーロン(χαμαίμηλον (chamaímēlon))で、これは花にリンゴの果実に似た香りがあるためである。スペイン語名のマンサニージャ(manzanilla)は「リンゴ(manzana)のような(香りがある)もの」という意味。属名の「マトリカリア」は「子宮」を意味し、婦人病の薬として用いられていたことに由来する。(Wikipediaより抜粋)

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メキシコといえば‘コーヒーCafe’ですが、メキシコに行きはじめた当時はまだ13歳でメキシコは乾燥している場所なので喉の渇きを覚えると昼間は‘フーゴ・デ・ナランハJugo de Naranja、夕食などには温かい‘紅茶Te Negro’を飲んでいました。

日本からメキシコへの航空機の到着便はたいていが夕刻〜夜でしたから、夕食時間の遅いメキシコでは夜9時くらいから軽い食事をします。

大学時代(1980年代)渡墨時レストランでの遅い夕食後に「レモンティー」を注文したくて「Te de Limon, Por favor」と言いましたら、ほどなくしてハーブティー用のガラス器にお湯とレモンの香りのティーバッグが付いてきました。日本のようにスライスレモンは付いていません。

お湯にティバッグを入れたのに時間がたっても紅茶色にならないので尋ねてみると、ウエイトレスが夜も更けて面倒くさそうに「レモンのお茶だ」と言う。確かにレモンの香りですが色はうっすら黄色のまま。何だか奇妙な味に感じましたが、これが私の生まれて初めてのハーブティーとの出会いでした。

この時のお茶は確かにTe de Limonレモン風味でしたが「レモングラス」のハーブティーだった事が、随分後になってわかりました。

今でこそ日本でもドリンクバーではアップルティ―、ミントティー、カモミールティーなどどれにしようか迷ってしまうほどの多種類のティーバッグが用意されていますが、当時日本ではティーバッグといえば紅茶、または緑茶くらいでしたからハーブティーなるものはほとんどお目にかかる事がなかったと思います。

両親がメキシコ・チャパラ湖畔に住み始めた1990年頃からはいつしかメキシコの家にはハーブティが常備されているようになっていて母はいつもテ・デ・マンサニージャを飲んでいました。

日本に一時帰国する時にもスーツケースには30センチ四方の大箱のティーバッグが2、3箱は入っていてその強い香りが荷物やキッチンに漂っていたものです。マンサニージャは「母だけのもの」と思っていましたしコーヒー党のわたしは飲んでみたいとも思いませんでした。

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5月はハーブが青々として花を咲かせたりいちばん素敵な季節です。お茶やスイ―ツ用にはミント、お料理用にローズマリーやオレガノ、セージ、観賞用にラベンダーなど、香りのある植物に囲まれているとほっとして気持ちが癒されるのは私だけでしょうか。

ハーブで思い出しましたが、ホームステイでお世話になっているメキシコ人宅のセニョーラはハーブ類を使ってシャンプーを作っていると言っていました。自家製のシャンプーを使うと抜け毛も減り髪に栄養が行き渡り髪の質も良くなるのだとか。次回お会いしましたら作り方を聞いてみますね。

現在の我が家の庭は食用春菊からたくさんの白や黄色の花(マーガレットですね)が花開き、セージの青紫の花は満開、ブルーベリーの枝には鳥がついばみ、ミツバチが飛び交ってお花畑になっています。ミニトマトが小さい花をつけ始めました。シラントロCilantro(コリアンダー香草)も香り高く、スープやタコスを更に美味しくしてくれます。

先日ふと庭の端をみましたらいつの間にかハーブが生えていて、小さな白い花弁に黄色混じりの花を咲かせていました。摘んで香りを嗅いでみるとこれがマンサニージャ=カモミールだったのです。そういえば数年前に母が病気したときに、煎じて飲ませてあげたら元気になるかなと植えた事を思い出しました、多年草だったのですね。

若いころは身近にあっても見向きもしなかったマンサニージャでしたが、母と同年齢になって初めて効用を知り美味しさが分かるようになってきました。庭に育って煎じて飲める喜びと、お茶の美味しさを教えてくれた母に感謝して毎日飲んでいます。sol(5月6日、2014年)

アイソン彗星

アイソン彗星ISONが観られる日が1カ月後に近づいてきました。太陽に最も接近するその近日点通過は11月29日だそうです。

近日点通過とは、太陽に最も近づくときのことで、アイソン彗星は太陽に近づく軌道を持っていて、太陽に熱せられ活動が活発になり明るくなり、わたしたちが肉眼でも見えるほどの明るさになるとのことです。

【アイソン彗星について】

2012年9月21日(世界時)、ベラルーシのヴィタリー・ネフスキー(Vitali Nevski)とロシアのアルチョム・ノヴィチョノク(Artyom Novichonok)は、国際科学光学ネットワークの40cm反射望遠鏡を用いた観測で、かに座方向におよそ19等の彗星状の天体を捉えました。発見時、この天体にはわずかに拡散したコマが認められましたが、その後の複数の確認観測により彗星と確定され、「アイソン彗星(C/2012 S1(ISON))」と命名されました。アイソン(ISON)は、発見者が所属する国際科学光学ネットワーク(International Scientific Optical Network)の略称です。

発見時の、太陽からアイソン彗星までの距離は約6.3天文単位、木星の軌道よりも外側の遠い位置でした。(参考:CBET No.3238, 2012 September 24)

しかし一方で、太陽に極端に近づく軌道を持つ彗星の場合、近日点通過の際に、彗星本体が分裂したり崩壊したりして、姿を消してしまう可能性もあります。彗星が分裂・崩壊せずに近日点通過後も元の姿をとどめるか否かは、彗星本体の大きさやもろさとも関係します。近日点通過後のアイソン彗星が、どのような姿で再び私たちの前に現れるかは予測が難しいところです。

※自然科学研究機構国立天文台ホームページより抜粋

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確か3カ月ほど前、JALホームペ―ジより「JALチャーター機に乗って空からアイソン彗星を眺めよう」の12月8日発ツアーのお知らせをもらっていましたが、つい先日娘が学校の理科の先生から、11月29日に肉眼でとても大きく観られる彗星が観察できるという話を聞いてきて思いだしました、それがアイソン彗星です。

小さい頃から小学校行事でプラネタリウムを観に行くことが多く、わたしは、あのお腹に響くような音響とドームの夜空の天体ショ―が大好きでした。

今まで観た中で一番感動した夜空は、平成10年11月のしし座流星群と、毎夏休みに家族旅行で行った八丈島です。滞在中お天気に恵まれ、特に夜空は毎晩満天の天の川で、今にも星たちが降ってきそう、手が届きそうなほど近く観えました。

夫に肩車された幼い娘と、就学前の息子がウワ―ッと夜空に手を広げて星を掴んでいるようなしぐさをしたその姿がとても印象に残っています。

JALツアー発売当初は、明け方出発のツアーだしきっと高くて行かれないけれどいくらくらいかなと思っていました。それが先日のDMメールで「完売御礼」となっていてもうだめかと思っていたところ、価格表の下方に「翼の上」と「通路側」の2万円台がわずかに残席あったようで、子供たちに「雲の上の飛行だからお天気には左右されないし彗星自身が消滅してしまうこともあるらしいけれど、行ってみる?」

と聞いているその間に「完売御礼」の印がついてしまいました。

トホホでしたが、人生そんなものです。では地上から明け方の東の空を駆けるアイソン彗星を肉眼で観られることを願って!sol(10月29日2013年)

はやぶさ

少し前に映画「はやぶさ」を観ました。

息子の通っていた高校の卒業生に宇宙飛行士の若田光一さんがいるので、現在住んでいるここさいたま市では宇宙の話題には事欠くことがありません。

先日も宇宙科学館で講演会が開かれていました。

わたしが小さい頃は、大きくなったら「野球選手になりたい」子供が多かったように思いますが、ここさいたま市では小さい頃からクラブチームや草野球ならぬ大小サッカーチームも多く「サッカー選手になりたい」というお子さんがとても多いです。子供にとって育った環境、土壌はとても大切ですね。

同様に、世界を超えて宇宙への道を切り拓いてくれた若田光一さんに続け!とばかりに、天文学者や宇宙関係の道に進まれる人が増えてくれることを願っています。

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わたしが空を眺めたり星を観るのが好きな事と、それもあって「はやぶさ」は是非観てみたい!とかねてより思っていました。

実話を映画化したもので淡々としたスト―リ―なのかなと思っていましたが、観はじめたら、涙があふれ、最後は涙が止まらなくなってしまいました。

【はやぶさ(ストーリ―)】

2010年6月13日、日本から打ち上げられた小惑星探査機<はやぶさ>が、いくつもの絶体絶命のピンチを乗り越えて、地球に帰って来た。月以外の天体からサンプルを採取して持ち帰るという、NASAでさえ成し得なかったミッションを果たすために―。わずか1〜2メートル四方の小さな<はやぶさ>の7年間・60億キロに及ぶ旅を支えたのは、ユニークな経歴を持つメンバーで構成されたプロジェクトチームだった。プレッシャーと次々と降りかかるトラブルに、心を一つにして立ち向かうチームのメンバーたち。不屈の魂を持つ彼らに心をわし掴みされた日本の映画人とハリウッドのスタジオが強力タッグを組み、プロジェクトチームの闘いの日々を追いかけた、感動のエンタテインメント!

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小惑星<イトカワ>のサンプルを採取して持ち帰る任務を受けた「はやぶさ」は無事に宇宙へ出発しましたが、ロスト(行方不明)や燃料不足にあえぎ苦しみながらも日本の期待に応え大役を果たして帰還します。

小惑星<イトカワ>は糸川英夫先生の名前が命名された平均半径が約160メートル、長径500メートルあまりしかない小天体であり、 これはこれまで惑星探査機が探査を行った中で最も小さな天体でピーナッツのような(映画の中では「ラッコ」と表現しています)形をしています。

【イトカワ】

イトカワと命名される

2003年5月9日、内之浦宇宙空間観測所からM-Vロケット5号機によってMUSES-Cは打ち上げられ、はやぶさと命名された[18]。打ち上げ後、はやぶさはEDVEGAを用いて1998 SF36を目指すため、5月末からイオンエンジンの運転を開始した[19]。そして宇宙科学研究所ははやぶさの目的地である1998 SF36に、日本のロケット開発の父・糸川英夫の名前を付けるよう命名権を持つ発見者のLINEARに依頼した。LINEARはこれを受けて国際天文学連合に提案、2003年8月6日に承認されて「ITOKAWA」と命名された[20]。2004年5月19日には、はやぶさはEDVEGAによる地球スイングバイを成功させ、秒速30キロメートルから34キロメートルへと増速がなされ、予定通りイトカワへ向かう軌道に乗った[21]。※ウィキぺディアより抜粋

「ぼくの故郷地球はほんとうにきれいだ。みんな、ただいま。」

大役を終え、そう言って大気圏に突入して帰還するとき「はやぶさ」くんはあっという間にバラバラになっていきます。

この小惑星<イトカワ>の糸川先生の

「宇宙実験では失敗と呼ばず<成果>と言う」

この言葉は、宇宙実験だけでなく今のわたしたちの行動の全てにあてはまると思いました。

それまでは失敗は成功の元、と子供たちに言ってきましたが、以来この<成果>の話をするようにしています。本当によい言葉だと思いました。

映画をご覧頂ければおわかりになりますが、JAXAが全面協力、7年間で60億キロ活動し日本中に勇気をくれた「はやぶさ」くんと、それを支えた人々を描く感動の物語です。

是非一度ご覧ください。sol(10月17日2013年)

サン・フェリペ・サンチャゴ村の刺繍布

数年ほど前から、メキシコ市のボデガオアハカサンナンヘルなどの高級バザールで見かけてはいたものの、そのお値段に「次にはお金貯めて購入しよう!」と心に決め憧れていた民芸品がありました。

それが「サン・フェリペ・サンチャゴ村」の毛織物の刺繍布です。

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サン・フェリペ・サンチャゴ村トルーカ市から更に車で1時間、調べてもらったメキシコ人からは「本当にそんな奥地まで行くんですか?」と言われたほどですが、東京からさいたま市へ、そこから秩父へ行く、そんな行程を想像していただければよいかと思います。

トルーカ市(標高2680m)は、メキシコ州Edo.de Mexicoの州都。メキシコ市(標高2240m)から車で1時間、更に標高が高いネバダデトルーカという雪を頂く山々に囲まれている美しい町です。

わたしの現在住んでいるさいたま市(旧浦和)とは姉妹都市で、そしてメキシコ州は埼玉県と姉妹都市(提携30周年)提携を結んでいるので、埼玉県ではメキシコ人留学生などに逢うことも多いです。

メキシコで一番暑いといわれている3月〜5月ですが、この季節にしては標高も高いので寒いと聞きジャンパーを持参しましたが照りつける日差しと乾燥した空気で、メキシコ市とほぼ変わらず25度前後だったように思いました。

トルーカは、かつて父・島田正治が描いたことのあるその町の名前の通り風光明媚な町バイエデブラボーValle de bravoやミチョワカン州モレリアへの入口でもあります。

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トルーカは標高が「やや高い所」という認識はあったのですが、探していた民芸品を求めて山奥へ、いくつかの山越えをしているうちにひどい頭痛を感じました。

同行してくれたホームステイの家族は必至でその民芸品の村を探し訪ねてくれたのですが、村人はみな町へ商品を売りに行っているということで結局は村の女性たちの制作現場を見ることはできませんでしたが、山を下りてきてようやく、市内にあるトルーカ市民芸館にて作品に巡り合うことができました。

山を周っている時、アラべ(アラブ)のタぺストリ工房があり、他にもいくつか民芸の村々が点在しているということがわかりました。石垣の門にはタぺストリがはためいていたのでわかりましたが、ともすると見過ごしてしまいそうな小さな入口なのに作品は驚くほど高額で、しかも大作ばかり。お金の用意があるなしでなくてこれは飛行機では持って帰れない、日本で購入したほうが割安かなと思いました。

この間、とても素晴らしい景色のマゲイ(竜舌蘭)の段々畑の間などを走ったのですがあまりの頭痛でボーっとしていて写真を撮りそびれてしまいました、とても残念です。

(旅行を終える頃になってから高山病だったということがわかりました)

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かつて、これらの村々ではトウモロコシ栽培を中心とした農業を行っていましたが、25年前当時のトルーカ民芸館館長の提案で女性たちが家内工業として刺繍を手掛けるようになったとのことです。

今でも家々の庭先には、黄色や白黒の色々なトウモロコシが乾燥箱に積まれニワトリが広い土地の中を走り回っていました。トウモロコシが原料のトルティーヤ製造工場もあちらこちらにあり、トウモロコシは刺繍のモチーフにもなっています。

メキシコ市に戻り、ようやく見つけた刺繍布を見せてメキシコ人に自慢すると「ああこれなら知っている、見たことあるよ」と言うのですが、インディオの女性たちがよくメルカードで制作したりしているのでオリジナルがサン・フェリペ・サンチャゴ村であることを知らなかったとのことです。

メキシコ民芸品は安価なイメージがありますが、藁などを取り除いてから毛糸を紡いで刺繍を施してゆくこの作品は、忍耐と時間を要しますから値段も相応にします。

綿の刺繍布は鍵付きのガラスケースに飾られていたほどです。中国のスワトウ刺繍のようですね。

わたしもようやく出会えた素敵な刺繍作品に、これからも継続して購入(値切れません!)みなさまご紹介し、村の人々に微力ではありますが貢献していけたらと考えています。sol(9月15日)

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△トウモロコシのモチーフ 220x43cm(素材ウール)15700円

梅エキス

梅雨の晴間の日に、裏庭にある梅の木の実を60個ほど収穫しました。お隣の方から手作りのアンズジャムをいただいたので、わたしも梅ジャム作りに挑戦してみようと思ったのです。

梅の実の皮をむいていて、この香りどこか懐かしい匂いがして記憶を辿ってみると…祖母が毎年作っていた梅エキスの匂いであることを思いだしました。

梅の実を一個一個すりおろしてコトコト土鍋で煮込み黒光りするまで煮詰めます。あんなに山のようにあった梅の実からほんのちょっぴりしかできないのですがこれが腹痛や夏バテなどに効果があるのです。

梅エキスの成分は煮詰めることによって普通の梅には存在していない成分(ムメフラール)ができます。この成分は血流を改善する効果があるそうです。

小さい頃お腹が痛いと言うと、決まって梅エキスにお砂糖をたっぷりまぶしたスプーン一匙を含まされるのですが、これが厭で腹痛を我慢したりしていました。「酸っぱ苦さ」が凝縮した味とでも表現したらいいでしょうか。しかしそれを我慢して食べると不思議と治るので、大きくなってからは自ら「梅エキスちょうだいね」と戸棚から出して食べていました。先人の知恵ですね。

祖母は、伯母や母6人の子供を育てあげた昔の主婦で、その季節毎の手作りをきちんとこなしていました。

梅エキスも梅雨時の今頃つくっていたのですね。梅の実をすりおろす姿は覚えているのですが、祖母から手伝ってと言われたことは一度もなかったです。

12月になると新巻鮭が田舎から何匹も送られてきてつるしてありました。鮭を出刃包丁でブツブツ切って切り身のおすそ分けをもらいました。脂が乗って美味しかったけれども鮭の鱗がついていて実に食べにくかった。祖母の娘である母は鮭の皮まで食べる人ですが私はその鱗の食べにくさの思い出からか今でもあまり好んでは食べません。

鮭のトバの部分でしょうか、お正月には昆布巻きにして食べさせてくれていました。昆布も鮭も骨まで柔らかく煮えていて本当においしかったです。

お正月には親戚一同が集い臼と杵で餅をつき手際良く返すのは祖母の役目でした。また蓬の季節になると土手で蓬をとってくるのはわたしの役目で、たまに蓬でない草が混じっていてこれは違うと教えてくれました。今でも道端の草を見ると蓬だなあと摘みたくなります。

私の梅ジャムにも水あめやお砂糖をたっぷり入れたのに酸っぱくて、でも添加物のない自家製の安心感と、そして祖母の手作りの1年を懐かしく思い出しているところです。来年は梅エキス作りに挑戦してみます。sol(6月27日)

東日本大震災から1カ月

3月11日(金)あの大地震、大津波、原発事故から1カ月が経ち名称も「東日本大震災」となりました。

直後には大きな余震の心配がないと発表されていながら有感地震が一日に20〜30回。新たに、今後も大きな地震に注意とのこと発表され私たちの不安はなかなか軽減されません。

そして福島原子力発電所事故での見えない敵(放射線の心配)や、それらから派生する人や魚介・野菜への影響は予想をはるかに超え甚大で物事がそれだけでは収まらないという天災の脅威、自然の大きさを思い知っている今日この頃です。

4月に入って夜11:00過ぎに震度5弱の大きな揺れがありました。寝入りばなでしたし、ようやく揺れが収まっても、沿岸にお住まいの方々は津波警報、それから起きて逃げるなど、一時も心休まる時間がなく本当に大変なことだと思います。

子供たちなど就寝中で一旦は揺れを感じて起きたもののまた眠り始め、慣れとはある意味怖いものだと知りました。

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そんな中ですが、わたしたちの生活で変わったことは

◎地震の時どうでした?と会話が始まる。

◎常に揺れているのではないかという不安(慣れ)。

◎駅、電車、スーパーなどで電気が薄暗くても、エスカレータが止まっていても他の方法(階段)で十分足りることを知りました。

◎いつ大きな地震がきてライフラインが止まっても覚悟と準備ができてきた。

◎電気のある生活の有難味がわかった。

外出時は食糧と飲料、携帯電話充電器を携帯し帰路を想定し、仕事もできるだけ前倒しに、そして有事の際はお互いに仕方ないと判断できるようになりました。電車が止まってもイライラする人の姿はみかけませんしどんな時にもみな落ち着いて行動しているように思います。

最近、ご近所ではプロパンガスを購入する人が増えているようでガス屋さんの車を多く見かけるようになりました。

燃料の残量がわかれば何時止まるかわからない都市ガスより安心ですし、また使用料を調節(節約)するようになります。わたしも幼少の頃はプロパンガスの生活でしたから、プロパンガスの切れた時(何度もカチャッカチャまわしてみるが点火しない)の不便さはあるものの配達の時ゴロンゴロンと転がして持ってくるガス屋さんの姿を懐かしく思い出します。

便利な世の中になりましたが、結局は基本のこと(もの)があれば事が足りることを知った今回の大地震でした。

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東北沿岸地域では家も財も家族も流され、またこれからどうやって生きてゆこうと途方に暮れている方々も多いと聞きます。またご家族を亡くされた心の悲しみや痛みは計り知れなく、地震・津波を経験した人でなければわからないことです。

しかし世の中に生きている人はみなそれぞれの苦悩や試練を抱えて生きています。

世の中には2種類の人間がいて、

できない理由を探す人間。

どうやったらできるかを考える人間。

の、二通りとのことです。

何か自分にできることがあるはず、今の自分には何ができるだろうか?と考え、それは寄付でもまたボランティアでも、とにかく自ら進んで行動に移した人が前に進む事ができるのではないかと思いました。

人間(ひと)の行うことですから、宇宙の年数や大きさに比べると微々たるもの日進月歩ですが、少しずつ歩んで行けたらと思います。

放射能汚染を心配して農作業を中断していましたが、この日本で生きていくのですからこの土地に感謝し、耕すことを再開しました。何をどのように植えようか…実もたわわに青々と葉っぱを茂らせした野菜たちを想像し、苗を見て歩くのが楽しみな毎日です。sol(4月18日)

ベクレルとシーベルト

雨上がりの3月23日水曜日、県内各地で卒業式が執り行われました。

わたしも、娘の卒様式に参列して来ました。

地震後、給食がストップしたり集団下校になったり歓送迎会も中止で小学校課程終了間際になって様々な事があったにも拘わらず、また避難所で卒業証書授与式が行われていたりしている事から考えると、無事にこの日が迎えられたことに心から感謝します。

東北3県で亡くなった児童生徒は184名にのぼり、先日の卒業式ではは148名でしたから一学年分もの児童の命が失われたかと思うと本当にやりきれない気持ちでいっぱいです。ご冥福をお祈りします。

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思い出に残るいい式だったなと感慨に浸って校門から校舎を眺めていましたら、ふと足元に黄色いペンキの痕(ポタッと滴った痕)のようなものがあることに気付きました。

見廻すとあたり一面に黄色いものが付着しているんです。

ん〜、これは花粉のような真っ黄色で天然の黄色さだけれども、今まで見たことがないものでした。

夜のニュースで「黄色いものは花粉」と報道されて、一旦は納得したものの、初めてのことで何だかしっくりこない。放射能と合わさって化学反応を起こしたのかと思いました。(これには息子もあきれ顔)

今日はそれらをすべて雑巾で拭って水で洗い流したつもりですが果たしてそれで大丈夫なのか!?不安も残ります。

「黒い雨」ならぬ「黄色い雨」で、不安に過ごした二日間でした。

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(毎日新聞より抜粋)

Q「ベクレル」と「シーベルト」との違いは?

 A ベクレルは放射線を出す強さの単位で、体への影響を見るにはシーベルトに換算が必要。1キログラムあたり1万5020ベクレルのヨウ素が検出されたホウレンソウを食べたときの影響は0・33ミリシーベルト。日本人のホウレンソウ1日の平均摂取量は約15グラムなので、実際の影響は0・0049ミリシーベルトになる。

上記だけでは???

ちょっと理解し辛いですよね。

今朝の産経新聞にとてもわかりやすい説明が掲載されていましたので以下にご紹介します。

放射線の人体への影響をわかりやすく考える場合、焚火に置き換えればいい。焚火から1メートル離れた場所と5メートルとでは体が受ける温かさに差が生じる。同じ1メートルの場所でもアイスクリームを1分間置くと少し溶けるが5分間置くともっと溶ける。このことで放射線を長く浴び続けるほうが影響が大きいことが理解できる。また同じ1メートルに5分間おいてもアイスクリームなら溶けるがかぼちゃなら溶けない。焚火から受ける影響は物質によって異なる。距離も時間も含めて最終的に人が受ける影響を表す場合の単位が「シーベルト」

またどんな場合でも無駄な被爆は避けるべきだが現在は「本来あるべきでない放射性物質」が大気中に放出されている状況。政府はまず危機管理方針を説明したうえで年間50ミリシーベルト(医師などが1年間に被爆する許容量)を基準に危機管理を徹底すべきである。(放射線災害研究所 郡山一明所長)

日本は原発からの避難距離を20キロ圏に指定した際、アメリカ政府は既に在日米国人に80キロ圏外への避難指示を出していました。これにも不信感を抱かずにはいられませんでした。一刻も早くきちんと説明の上での指示を出してもらいたいものです。

Q 食べ続けても大丈夫?

 A 日本人は普段も摂取した魚や野菜などから年間0・3ミリシーベルトを受けている。関澤純・元徳島大教授によると、ホウレンソウは洗ったり、ゆでたりすれば放射性物質はかなり減る。

 牛乳は「最も汚染されたもの(福島県の約1500ベクレル)でも、数回飲むくらいなら自然被ばくの10分の1以下で、飲み続けなければ大丈夫」という。

 ◇現状、雨にぬれても影響なし

Q 水道水は飲んでいいの?

 A 水1リットル(1キログラム)当たりの摂取制限の指標はヨウ素で300ベクレル、セシウムで200ベクレル。福島県内では17日、一時的に308ベクレルのヨウ素が検出された。厚労省は指標を超えた場合、飲用は控えたほうがいいものの、風呂や手洗いなどには問題ないとしている。飲用水がなければ、飲んでも差し支えないとの見解も示している。

Q 雨が降ってきたら?

 A 文部科学省は全国の都道府県などに対し、地上に落ちたちりや雨に含まれる放射能を調査し、可能な限り毎日、報告するよう求めている。20日発表されたデータでは栃木や群馬、埼玉などの都県で微量な放射性ヨウ素などが検出されているが、雨にぬれても健康に影響はないと考えていいレベルだ。ただし田中俊一・元原子力委員会委員長代理は「このまま大気中の放射性物質濃度が高い状態が数カ月続くと、健康への影響が心配になってくる」と話す。

 できる限り被ばくを抑えたい人は(1)外出は雨がやんでからにする(2)髪や皮膚がぬれないようにする(3)気になる場合は、流水で洗う−−ことを心がけたい。

Q 食品の汚染が心配なときはどうやって食べればいい?

 A 放射線医学総合研究所のホームページによると、野菜は、洗う▽煮る(煮汁は捨てる)▽皮や外葉をむく−−ことで汚染の低減が見込める。

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一部の被災地域ではうがい薬を飲むと被爆解毒になるとでまかせが広まっているようですが、それはないとのこと。

自然界にある海藻類に含まれているヨウ素やうがい薬の有効ヨウ素、それらは放射性ヨウ素と異なるもので大丈夫イソジンうがい薬は規定通り薄めて使用しましょう。

1週間前には大変な行列で購入しませんでしたが、1リットル当たり151円とはなったものの今日はもうガソリンスタンドは平常通りの営業でした。同様に何事も風評に惑わされず落ち着いて判断・行動することを心がけたいものです。sol(3月28日)

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▲今日、被災地の保育園を通じて思い出のランドセルを寄付しました。ピカピカに磨いて送り出しました。

東北関東大震災と関東大震災

地震発生から2週間が過ぎ、日常生活も落ち着きを取り戻したかと思う頃に日に3回ほど震度3〜5の余震が起こるので、緊張の毎日が続いています。

岩手、宮城、福島、茨城各県の太平洋沿岸では死亡・不明の方々が2万6千人を超え、一日も早く安否が確認できることをお祈り申し上げます。

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今回の東北関東大震災は(とうほくかんとうだいしんさい)は平成23年(2011年)3月11日(金曜日)午後14時46分、マグニチュード9.0を記録、その地震による東北太平洋岸を襲った大津波、そして福島の原子力発電所の水素爆発と未曽有の大惨事となっています。

88年前の関東大震災(かんとうだいしんさい)は、大正12年(1923年)9月1日(土曜日)午前11時58分32秒(以下日本時間)、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9、海溝型の大地震(関東地震)による災害である。

千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大級の被害を与えた。

なお、地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、9月1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測している。 この頃、気象台には大規模な火災が次第に迫り、ついに気象台の本館にも引火して焼失していた。気象記録としては無効とされ抹消されているものの、火災の激しさを示すエピソードである。

190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったとされる(上述のとおり、近年の学界の定説では、死者・行方不明者は10万5000人余と見積もられるようになった)。(Wikipediaより)

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わたしたちが小学校時代はまだ関東大震災の教訓があって「地震発生」→机の下にもぐる、そして「給食室から火災発生」→防災頭巾(銘々の座布団)を被って校庭に避難、という避難訓練を行っていました。

名古屋に住む友人は小学校時代、カッパを着て防災訓練をしていた(原爆の放射能から身を守る)そうです。沿岸地域は津波対策、地震対策などそれぞれの地方によって違いこそあれ何かしら災害への訓練は行われてきているのですからこういう非常時こそ落ち着いてその成果が生かせるといいと思いました。

今回の地震発生以来、小学生は防災頭巾を被って登下校していましたが、普段は学校椅子の自分の座布団が、電線や瓦屋根などの落下物から身を守るための防災頭巾であることを、初めて知ったお子さんも多かったのではないかと思います。

親である私たち自身も、自治会の避難訓練や小学校の引き渡し(震度5以上発生時に引き取りに行く)訓練では地震当日の経験を忘れず、いつ災害が起きても慌てない心構えを持って臨まなければいけませんね。

昨日の卒業式にても式場の椅子下には銘々の防災頭巾が置いて準備してありました。

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その昔、父方の京都の祖父・島田真二郎に関東大震災はどんなだったか問うたことがありました。それはガタガタとよう揺れた、これはえらいこっちゃ!と思ったと話してくれたことを思い出しました。

そしてこのブログを書いていて関東大震災が伯母が生まれた大正12年であったことに気付きました。早速伯母に話を聞いてみると、伯母は北海道で生まれで、テレビもない当時のことですから大変だったらしいけれども関東大震災は遠い本土の震災という記憶しかないそうです。

その後の伯母はは祖父の仕事で転勤が多かったため新潟、神戸などで暮らし、関東に戻ってきたのは10年後だったそうで、関東大震災での被災は免れたとのことでした。

戦争時代こそ経験してきた伯母ですが、戦時中は公務員として南方へ赴き戦勝国民として暮らし本土のような悲惨な思いはしなかったと話してくれました。90年近く生きてきて、伯母なりの苦労もあったと思いますがその間に戦争や様々な災害が起こったのにも拘わらず大きな災難を免れて来られた、伯母本人は気付いていないようですけれど、ささやかだけれどもこんな幸せなひともいるんだなと思いました。

伯母はいつも「老い先長くないんだから」というのが口癖ですが、残りの人生も恙無く毎日を楽しみ過ごしてほしいものだと思っています。sol(3月25日)